別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

自尊心が高いのではなく、逆に低い

私はどちらかというまでもなく、感情的で怒りやすいです。はい…^^;
もっともこの怒りは不当に我慢させようとする人間に対して発揮されやすいです。例えば喧嘩両成敗のように、両者の言い分を聞くこともなく、ケンカは良くないなどと嘯き仲裁するような「できた人」に対してとても怒りを感じるのです。

こういう人は一見寛大で穏やかなように見えます。こちらが意思を表明していても、まぁまぁなどと言って自分はうまくあしらえる大人なんですよ~というアピールも上手い。
しかし、彼らは寛大でもないしもっと言えば頭も良くない。最低限の事実関係を確認しようともしないほどに怠惰でもある。強いものにまかれ、正面から相対する勇気がありません。
実際のところ、彼らの自尊心は、世間の評価とは裏腹に、きわめて低いのです。そうでなければ決して他人に迎合する事はできないからです。

彼らも、元を辿れば親などから自尊心を奪われてきたのだと思いますが、いつからか自分から自尊心を差し出すようになりました。そしてそういう人ほど他人の自尊心を奪おうとするのです。かくして負の連鎖が出来上がりです。
自尊心を奪われる側の人間も、もちろん自尊心が低いのですが。

私も例に漏れず親から自尊心を奪われてきました。そしてその影響下にあるまま職場を選んだりしたせいか、親と同じような人種に出会う事がとても多かったし、いまの上司や同僚もそんな感じです。まるでDV男を渡り歩く女みたいです嫌になっちゃいます。
ただ私にはとても頑固で、道理に合わないことはどうしても譲れない性格でした。そういう時はいつも黙りの私が反撃したりするもんだから、向こうはびっくりするのかどうか知りませんが、何熱くなっちゃってんの?みたいな顔をして、あげく空気を乱すなとか言われます。

いま空気の話しは、してねぇだろうが(#゚Д゚)ゴルァ!!

 


さて、そんな人達と関わらないようにするにはどうしたらいいのか。経験からすると見分け方は次のような感じでしょうか。
世の中こんなもの、角をたてずに上手い事やらなきゃ、みんな仲良く、笑顔で元気よく、もっと心を開いて・・・などなど。

社会人マニュアルにでも書いてありそうですな。
あと、異常に空気を大切にする、も追加で。随分エコに熱心なんですね〜(笑

私は今まで、自分が悪いのだとばかり思っていました。まあ悪くないこともないですけど、それにしても無自覚に自尊心の低い人は、かなり多い印象です。
多数派だから自分は正常だと思っているのかもしれません。

まあとにかく、自尊心を奪われたくなければ、まずは自分がしっかりと自覚するしかありません。無自覚でいる限り奪われ続けるし、こんどは自分が奪う側になってしまいますからね。

 

私を利用するな

なぜ挨拶するのか、の続きですがその前に、

なぜ挨拶されないと不機嫌になるのか。

まあ端的にいうと承認欲求が満たされないからですね。非常識だとかマナー違反だとか色々言いますけど、そういう理由では全然ありません。

 

相手の態度如何で機嫌が左右されるというのはつまり、相手に依存しているからに他なりません。自分一人で立てないから誰かを餌食にしようとするんです。まあこれは挨拶に限った事じゃありませんが。

 

私が挨拶を強要する人が嫌いなのは相手のその卑怯さがなんとなく分かってしまうからです。そして当人にはその自覚が全くありません。

ちゃんと自立している人とならコミュ障の私でも自然と挨拶できるんですけどね。そうじゃない人だと凄く身構えてしまうから、欲求が満たされない相手は余計に機嫌が悪くなるんだろうけど。

 

なぜ挨拶するのか

特に理由はありません。強いて言うなら、ただ生存したいから、生存に有利だから。

神様が決めたからでも道徳だからでも善行為だからでもありません。

 

ほらほら、私もあなたも一人じゃ精々ウサギを捕まえるくらいしか出来ませんよ。でも徒党を組んだらマンモスを倒すことができますよ。だから仲良くしてより多くの利益を分け合いましょうよ。ね。私たち仲間ですよ^^

っていうのが「こんにちは」の意味です(超意訳)

 

挨拶に限りませんが、世の中の常識とされている行為の全てはこれに尽きるんじゃないですか?皆えらそうにあーだこーだ講釈をたれるけれども。

非常識な行為についても同じことです。ただ、どちらの勢力に属するかというだけの話で、非常識なグループでは非常識な行動が常識となる。

常識も非常識もグループ内で生存すること、つまり自己の保存という衝動に突き動かされている事においては何も変わらないと思います。

 

まとめると、挨拶は正義だと思っている輩が私は大嫌いです!

 

 

 

余談ですが、挨拶する事のデメリットもあると思うんですよね。簡単に言えば目をつけられるということです。

もともと挨拶という行為が己の存在を知らしめるためのものですから、目的は果たしているとも言えますけど、この場合は知らしめる相手が問題なんですね。

私の場合は変質者に目をつけられました。高校生のころ当時住んでいたマンションの住人だと思い挨拶したのですが、その所為で襲われたことがあります。幸いにも未遂でしたが、こういうデメリットもあるんだということを知っておいてほしいと思います。

一つ弁解をしておくと、奴は大学生ぐらいのごく普通の風貌をしており、決して世間で言うような不審者ではありませんでした。不審者に注意!というのは全く的外れですな。

殺人事件の8割ほどが身内や顔見知りによる犯行らしいので、身内にはしっかりと挨拶しておきましょうね。

 

 

とある信者と私

信者「神は偉大!」

私「神様は本当にいるんですか?」

信者「神を冒涜している!異端者め!」

私「^o^」

 

信者「こんなのは常識だ」

私「常識とは本当に正しいのですか?」

信者「口答えするな!非常識だ!」

私「^o^」

 

 

 

怒れない人

世の中には何があっても怒らない人がいますが、それが素晴らしい事と言えるかはかなり疑問です。

 

怒らない人のそのほとんどは寛大なわけではなく、単に怒ることもできない腰抜けであるかもしれません。何かを守るため、金、職場、地位、そのほとんどは取るに足らない物ばかり。穏便に済ますことを最上とした人達は、そのくだらない装飾品のため、本当に守らねばならない自分、自尊心を切り売りしてきました。その結果が今の日本です。

こういう人達の何が害悪かというと、自分のみならず他人の自尊心まで奪おうとする事です。ゾンビに噛まれたら感染してしまうみたいに。

私はこの歩く屍のような人達には一刻も早く死んでほしいと思っています。まあ、そうなれば人類は壊滅するでしょうし実際はそういう奴ほど長生きするんですけどね。

 

 

常に怒鳴り散らしているような人間は問題外ですけど、普段寡黙で抑圧されているような人間が時々爆発したように怒る事があります。体は強張って声も震えてはたからみたらさぞかし滑稽でしょうが、それを笑う資格はあなたにはありません。なぜなら自尊心を取り戻そうと戦っている最中だからです。自尊心を自ら切り売りしたノータリンなどには絶対に出来ない事です。

しかし、現実問題としてこういう人は世間から排除されてしまうでしょう。ノータリンの方が奴隷にしやすいですからね。

たとえ社会からはじき出されても、陰で何言われようとも、それでも私は彼らを応援したいと思います。まあ、本当は排除されないようにもっと上手く出来た方が良いんでしょうけどね。

戦えば負ける事もあると思いますが、戦うその行為そのものに意義があると思いましょう。勝った方が気分が良いですが、まずあなたが勝つ事はありません。多勢に無勢ですからね。でも負けてもそんな事は捨て置くことです。怒りを引きずってはいけません。

戦った者にしかわからないやってやったという感覚、欠片でも自尊心を取り戻す事ができた喜びがあるのですから。あなたが完全に自尊心を取り戻す事ができたその時は、もう怒る事も無くなるでしょう。

 

 

ついでに仏教の話をしておきますと、十戒には「怒るな」と書いてありますが、在家用である五戒には書いていないんですよね。周りが出家者だけなら良いですけど、在家でいる限り有象無象とやりあわなければならない事もありますから怒りのエネルギーが必要な時もあると私は思います。ただ、悟りたいなら怒りから離れる事は重要なことでしょうが。

お釈迦様がどういうつもりで「怒らない事」を五戒に入れなかったかは分かりませんけど、確実に言えることは今と昔とでは時代が違いすぎるという事です。お釈迦様の時代では普通にできる事でも現代では難しいという事はたくさんあるでしょうし。

まあ五戒は守りつつ、自覚的に怒りのエネルギーを利用して行けば良いのではないでしょうかね。

 

 

金持ち喧嘩せず問題

金持ち喧嘩せず、という言葉がありますが、金持ちは本当に怒らないのでしょうか?

 

まあ実際のところ金持ちに怒りがないわけではないでしょう。相手の自尊心の低さに漬け込んで札束で殴りつけているだけですからね。

もし、その金持ちが無一文になって全ての後ろ盾を無くしたとしても、泰然自若としているなら、まあそれは本当に豊かな人と言えるかもしれません。ただし過去の栄光にしがみついている可能性は排除しきれませんが。

 

 

 

私の経験では金持ちもブチ切れていましたけどね。特に札束ビンタが効かない相手には。

 

 

正しく怒ればいい

「怒らないこと」

それ自体は正しいのだと思います。怒るという行為がいずれ自分の首を絞めることになるのは間違いないのです。

けれど、もう既に自分を抑圧している人に関しては怒ってもいいと思います。抑圧しすぎるともはや自分が怒っているのかどうかすら分からないほど混乱して、取り返しのつかない事にもなりかねません。

 

 

ただし、自分が一体何に怒っていてその怒りの矛先は誰に向けるのかを正しく分析しなければ、通り魔みたいな八つ当たりになってしまいます。親なら親に、上司なら上司に、恋人なら恋人に、怒りをぶつければいいんです。最悪殺しちゃってもいいんじゃないですか?その存在が消えることでしか解決できないこともありますからね。ただし、そのことで生じる責任はとらなければいけませんが。

 

もし本人に怒りをぶつけられないヘタレなら、ねねちゃんのママみたいにぬいぐるみでも枕でも好きなだけ殴ればいいんです。ぬいぐるみはあなたに反撃しませんし、ズタボロにしたところで社会に迷惑をかけるわけでもありませんからオススメです。あとはカラオケにでも行って罵詈雑言わめき散らしてもいいかもしれません。どんなに酷い言葉でも適当に曲でもかけておけば歌詞だと思ってもらえるでしょうしね。ただし、いずれも一人きりで行うように。

 

 

「怒らないこと」というのは万人にとっていい事とは限りません。そもそもこの現代社会で説法を聞きに行こうという人間は、世間に当り散らせるほど人生楽しんでいないでしょうに。偉いお坊さんの言葉でも自分との相性の良し悪しは重要だと思いますよ。

 

 

価値観が変わりました!

なるべく社会に適合するように価値観を変えて行くのは、我々がこの世を無事に生きていくためには必要な事だけど・・・

変わるというのは正確には置き換わるということです。AからBに、BからCに。どちらにしても価値観は価値観である。

セミナーなどを受けて価値観が変わりました、という人はその実なんにも変わっていないのである。

 

指導者探しをする場合、悟った人かどうか見極めるポイントの一つにこの価値観への表現の仕方がありそうです。まあ、言葉に注意を払わない人はこの限りではないけど、そもそもそんなひとは指導者に向いてなさそうだなぁ。

 

 

あまりにもバカバカしい

あんまり言うと真面目な修行者とかに怒られそうなんですけど、本当になんでこんなことが分からなかったのか、っていうぐらい単純なことなんですよ。

 

例えば、私達は牢屋の囚人で、どうしても脱獄したくて、色んなことを試してみますね。穴掘ってみたり、腐蝕させようと味噌汁をかけてみたり、それはもう涙ぐましい努力です。

しかし何一つ成果を挙げられず、身も心もボロボロになってしまいました。精魂尽き果て鉄格子にもたれかかった瞬間!

コロンと外に出てしまいました・・・

 

・・・?

 

!!!

 

そうです!なんと、扉にはもともと鍵なんてかかってなかったのです!

 

な、なんだって〜∑(゚Д゚)

 

 

っていう心境です。

馬鹿馬鹿しくてやってらんねー、もう笑うしかないって感じ。ほんと、今までの努力は一体なんだったのかと。

 

よく覚者は、努力するな、って言いますけど、こういう事なんではないでしょうか。とは言えそれは今まで努力してきたからこそ言えることでもあります。

 

リラックスしようとする時、そのままただ力を抜くより、一度思いっきり力を入れたほうが、より脱力しやすくなりますよね。

無努力、明け渡しともいわれますけど、いきなりここへたどり着くのは不可能に近い。特に現代人にはとてもできないと思います。

 

もし、努力する事に疲れてきたとしてもまだまだ努力してみて下さい。その全てが失敗に終わった時、何かがわかるかも知れません。

 

 

 

 

悟ることのデメリットとは

私が二進も三進も行かなくなった時、もう傷病手当貰いながら会社休んだれ!と思って診療内科を受診しました。

実際には、息も絶え絶え、すでに自殺の手段を考えるような段階でしたが、初診から一週間後には休職する計画はパーになってしまいました。

 

なぜかというと、悟ると基本的に鬱病になれないから。

悟ると言っても私の場合は未練タラタラで解脱するほどのものではないですが。

 

それ、の直後は自我の揺り戻しみたいな感じがあったので、一時的に死にたくなるんですけど、それを超えるともう落ち着いてしまいました。生きる理由はないけど死ぬ理由もない、みたいな。

 

しかし、別の意味で憂鬱になる事はあります。残った自我がうっとおしく思えてくるんです。勝手に暴走している自我を眺めているのにウンザリしてくるというか。まあ、自我を嫌だと思っているのも自我なんでしょうけど。 

 

 

あ〜休職からの障害年金で悠々自適な生活を送るはずだったのにな〜^^;

 

手当受給を狙っている人は、絶対に悟らないようご注意下さい。