別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

現在の様子と今後どう生きるか

前回の更新のあと会社を休職しています。

ある朝、ベッドから起きられなくて。動悸や体の震え等もあり適応障害と診断されました。

原因は私が嫌な奴だから(笑)ということと、感覚が過敏で普通の人が耐えられることに耐えられなかったからです。理由がしょうもなさ過ぎて恥ずかしいので詳しいことは秘密にしておきます。

 

おいおい、悟ったとか言ってるくせに精神病とはどういうことだ、と思われるかもしれませんけど、やっぱり病気にはならないと思います。心の病気には。

はたから見たら完全にキチガイだと思いますが、本人としては外側はともかく内側ではあんまりなんとも思ってないんですね。まあ私の場合はですが。

 

例えばですが、ささくれが出来たとして、「あ、ささくれだ。痛い。」みたいな。ただそれだけ。

でも、ささくれだって手入れしなければ血がでたり化膿したりするわけで、それが適応障害という形で身体に表れたのかなと思っています。

例えがアレなんで、ささくれ如きで?って感じですけど、世間の人はたったそれだけの事でも、この世の終わりみたいに騒いでいるのではないかと思います。それが違いかと。

 

休職の原因とは別に休職するまでの間にも胸糞悪いことがたくさんありましたが、言いたいことも三割ぐらいは言えたので、ちょっとはすっきりしました。

OSHOは怒りは枕にぶつければいいと言っていましたが、直接人に言うほうが気分が晴れますね~。ただ、人間としては終わりますが。

 

 

「体験」の前と後で変わったことがあるとすれば、自分がいまどういう気持ちかを口に出すようになったことだと思います。

賃貸契約を結ぶ際、女だからとかなりぞんざいな扱いを受けた時には思いっきりクレームを入れました。

スーパーでレジの打ち間違いで多く支払ったときは、ちゃんと返金してもらいました。

あと、親とくに母親に対して、過去の仕打ちについてどれほど傷ついたかをあの手この手で言いつのりました。

 

うわーーしょうもなさすぎる!恥ずかしい!!><

 

おめぇ怒ってばっかだな、って感じですが今までそれを表現することが出来なかった反動かもしれません。もっとも、その怒りは態度にはばっちり表れていたとは思います。

ただ、こんなしょうもないことですら、意識的に口に出すということが出来なかったんですよね。

 

悟りのイメージである聖人君子や、僧侶の説教にあるような人間的な成長から、全力で遠ざかっていっていますけど、私がそうしたいと思ってしまったので、仕方ないのかなと正当化しています。めっちゃ自分を甘やかしてます。

なんというか、実際口に出してから、「あ~私ずっとこうしたかったんだな」って感じです。

 

確かに怒りを人にぶつけてしまうと、社会的に問題になるし自分の首も締まるのですけど、自分には満足するんです。このどうしようもない私を認めることが出来るというか。

それに、親への怒りをぶちまけたあたりから、顔を見るのも嫌だった親とも普通に話ができるようになりました。とは言っても親が変わったわけじゃないので、全然かみ合ってないしフレンドリーじゃありませんけどね。でもそれでいいのだと思います。

そうすると他のことに対しても、怒ったりせずにどうして欲しいかを説明できるようになってきたと思います。まあ、まだ上手くいかない事のほうが多いですが。

 

 

世間では感情をコントロールできない人間はクズみたいな風潮ですが、我慢すればするほど感情は暴走するのだと思います。

私はこうしたい、こうして欲しい、こう思っている、と表明するのにそもそも感情は必要ないし、要望が通らなかったとしても、ほなさいなら、ってだけなんですね。

 

でもそんな簡単なことすら今まで分からなかったんですよね。

 

 

 

まあそんな感じで今に至りますが、我慢しなくなったというより我慢出来なくなったというか、だんだん我慢という言葉が辞書から消えてきた感じなので、これからどうやって社会で生きていけばいいのか、ちょっと悩んでいます。

会社勤めに戻るのも難しそうだし、心のどこかでは戻る気なんてサラサラ無いんですよね……。それが一番問題というか(笑

もはや”掟”には従えそうにありませんし。

フリーランスで何か出来るほどの能力もスキルもないし。

貯金はほどほどにありますが、一生暮らせるほどではないし。

 

まあしばらくは傷病手当も貰えそうですし、もうちょっと引きこもっていようかなと思います。お金のことは心配ですが、先達の言う「自分になる」「自分を生きる」とはどういうことか、向き合ってみたいと思っています。

ニート万歳です^^

 

 

 

 

 

まあ、本当はもう分かってるはずなんですよ。

往生際が悪いだけでね。

 

 

 

(連絡)ブログの今後

まあけったいなことにこんなブログでも見てくれる人がいるみたいなので念のためお伝えしておきます。

 

一応、体験談でもって一区切りとしました。今日みたいに臨時で更新することもあるかもしれませんが、あまり積極的に更新する事は今後もないと思います。

まあ端的に言えばそうそう書くことがないからです。基本的にやるべき事は五戒を守ることだけですから。あとは瞑想したり、仏法聞いたり。

 

結局書くことといえば個人の体験だったりですが、それって万人に有効なわけでもないですからね。まあ難しいところです。

 

ひとりごとの類は非表示にしましたが、ブログ自体は残しておきますので、こいつの言ってることはおかしい俺が確かめてやる!ぐらいの用途に使って頂ければと思います。

 

 

 

こころとからだ

体験談を投稿して最後にしようと思ってましたが、ちょっと感じた事があったので書いておきます。

 

ことの発端は会社での些細なことですが、経緯は下の方にでも書いておきます。しょうもないのでどーしても暇な人はどうぞ。

 

結果から言うと、私は久々に怒りました。そして泣きました。しかし私のこころは非常に穏やかだったと言うことです。

これは体験の後にも感じた事と同じですが、改めて考えてみようと思います。

 

湖面と湖底の例えを見た事があるかもしれませんが、まさにその通りなのです。表面は波立っているけれど底では波もなくとても静かです。

からだは湖面。ブルブル震えるし、涙は出るし、怒りで呼吸は荒くなっていますが、こころには波一つ立っていません。湖底は穏やかなままです。

 

泣いているから悲しいのだし、震えているのは不安だからだし、そう言う事は理解できます。苦痛を感じているのは確かです。でもそれは体が感じている事で、こころが感じている事ではありません。

 

まあこれをこころと言ってしまうのは若干違和感があるのですが、取り敢えずこころと表現しておきます。

 

よく感情とこころは同じもののように思われていますが、そうではなく、感情は体に付随するものだと感じました。

体の反応というのは、生まれてからの躾や教育、経験などからプログラムされたものに過ぎないのだと言う事です。そして感情も同じ。私たちはこのプログラムを性格と呼んでいます。

 

仏教界隈では性格のいい人間になる事を勧める傾向にありますが、それはどうかな〜という感じもします。

なくて七癖というぐらい誰にだって癖というものはありますが、それを矯正するのはとても大変だと思います。肉体的な事でさえ大変なのに、性格を変えるのはもっと大変でしょう。

勿論良い性格は俗世を生きるのにとても重要です。でも、実際問題簡単に性格を変える事が出来るのなら、誰も悩んだりしないでしょうね。

 

感情のままに行動することは沢山の問題を起こしますから、よくよく気をつける必要はあります。

しかし殊更感情を抑えたりする教えにもちょっと疑問を感じます。

特に内省的な傾向のある人には抑圧した事で感情がこじれた方が害が大きいように思います。

 

怒らないこと。という教えを実践し守った上で怒ってみると見えてくるものがあるかもしれません。(その事で生じた結果には責任を取らないといけませんが^_^;)

 

世間では明るく元気な性格の人の方が多いから、それが良しとされているのですね。仏教でもサンガなど集団で生活する以上、多数に合わせる必要がある、という程度のことだと私は思います。まあ、それが重要なんでしょうが。

 

暗くて活動的でないからと言って、悟れないってことはありませんから、悲観する必要はありません。お釈迦様だって明るく楽天的な性格なら突然出家したりしないでしょう?今で言うメンヘラですよメンヘラ(お釈迦様ならびに仏教関係者の皆様ごめんなさい)

 

しかし、暗くて内省的な性格では、世俗ではハードモードになることは間違いありませんから、まあ出来るところは改善した方がいいでしょうね。

 

とか言って、自分は出来ないんですけどね〜

ハードモードどころかマストダイですわ〜

0〜 _(:3」z)_  

 

 

まあ幸も不幸も色々あるけど、いつかの自分がやった事が帰ってきてるだけだから、報いを受けるに相応しいのだと観念して、仏道に邁進しましょうね。

 

 

 

 

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以下、どうでもいい発端です。馬鹿な私をお笑い下さい。

 

 

まあ、今まで色々と不満が積み重なってはいたのですが、私の所属部署が新年明けてから突然アロマを焚き始めました(この部署だけ部屋が違います)

私には一言も断りはありませんでした。社員には了解を取ったと言っていますが、どうやら私のドッペルゲンガーがいる模様 ^_^;

もともと私は五感が過敏な質で、他の人が気づかないような感覚でもわかってしまう事があります。(最近ではHSPと言うのだそうです)

だからアロマなどの匂いのキツイものは死ぬほど苦痛でしかありません。

しかし、他の人は楽しんでいるようだからと様子見していましたが、まるで芳香剤に放り込まれたようで私には地獄でした。

匂い自体も嫌いでしたが、限度を超えた使い方をしていることもあり、総務部を通してアロマの使用をやめてもらうように申し立てました。

しかし、やめるつもりは毛頭ないようでしたから、私は寒空の下、窓を開ける事で対処しようとしました。まあ、当てつけではあったのですが。ここで私の性格の悪さが露呈していますね^_^;

 

人の苦痛はどうでもいいけど自分の苦痛は我慢ならないようで、めでたく上役二人に囲まれることとなりました。当然の結果ですね。

で、私もあることあること言ってやったぜ〜と言いたいところですが、口で言えるならこんな事になってないんですよね〜

言いたいことは沢山あるのに1/3〜も伝わらな〜い♪ (実際には1/100も言えませんでした)

で、一寸の虫にも五分の魂と言うように、どんなにしようもない人間にも、それを言っちゃあおしめぇよって事があります。まあ、私は言われた側ですが。

聞いた瞬間ビビビッと脳みそが反応したわけです。そして冒頭の話へ繋がるわけですな。

 

まあ私にも過去にいらぬ一言で傷つけた人達がいたのでしょうね。まさに報いを受けるに相応しいのです。そうなると今度は私に暴言を吐いた人が報いを受けるのですが、可哀想ですけど仕方ありませんね。

 

と、ここまでが今回の出来事です。

以下はどこにも吐き出せないのでここに書いておきます。いわゆる自分語りという世間で最も忌み嫌われる類の話です。

心を掻き乱したい人だけどーぞ

 

 

しかし今回の事で相手の本音が出たわけですが、お前のこと舐め腐って見下してるけど、お前は俺を敬えよ、って無茶苦茶ですがな。でもこれスタンダードなんですよね。

しかも世間では裏でどう思っていようと、表では調子を合わせて上手いことやって行くことが社会人の条件なんです。私は社会人失格です。消えて無くなりたい _(┐「ε:)_

 

私はなんとなく相手の思ってることが分かるんですよ。被害妄想って言われた事もあるけど、実際当たってます。今回の事もそうですけど。

そうなるともう絶対フレンドリーになれません。嘘でもいいから〜、なんて言葉は私の辞書にはないのである(笑

どんなにいい人と言われていても、兎に角嫌で仕方ないって人がいたりして、その人に関わらないようにしていたら当然私が悪者になったりして。その後で犯罪がバレて捕まったりとかする人はいいんです(良くない?)けど、そこまでの悪ではない人、つまり普段仲良くしてるのに相手が居なくなると途端に悪口言ったりする人。こういう人が質が悪いなと思います。

 

人って自分の基準で物事をみてしまいますから、私も自分の基準つまり人の悪口は言ったりしないのが普通だと思っていたんです。ええ、私悪口言うほど人に興味ないんですよ(笑

 

でも世間には悪口も言い合えない人間は信用できないという人達もいて、それが割合多いみたいなんですね。つらい。

とは言っても、そういう人達も悪人と呼ぶには語弊があって、困っている人がいたら助けたりとかは普通にします。

誰だって100%悪でもないし善でもないのは当たり前です。で、大体の人は善の方が多いですからそれでなんの問題もないんです。

 

が、わたしにはどうしても許容出来ない。

お金を盗んだりモノを壊したり、そういう悪は悪らしくていいなって思います。いやまあ良くないんですけど、責任の所在が分かりやすいじゃないですか。勿論証拠があっての話ですが。有る事無い事本人が弁解も出来ないのに言いふらしたりする方が罪が重いなと感じます。

まあ自分がやられる立場だからそう思うわけですが。それでも行き過ぎれば冤罪だって起こるわけですしね。

 

悪口なんて可愛いもんじゃない、と思われるでしょうけどそれは一例です。実際吐き気を催す邪悪というのも沢山いますが、そういうものとは直接の縁がないんです。ありがたい事ですが。

でもそういう邪悪な人は割合多くてかなり身近にいて、しかも良い人そうでなんなら人気者だったりします。そして周りの普通の人は感化されやすいんですよね。だから質が悪いんです。

 

まあなんにせよ報いを受けるに相応しいと言えるんでしょうけど、それで全部片付けるのも癪に触るなぁというだけの話でした。

 

しかし今度はクビになる前に辞表を叩きつけそうだ。絶対後悔するだろうけど。

半年後に会社を辞める自分が見える〜(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

 

 

こんなところまで読んでしまってお気の毒に。さあ、ご飯でも食べてひとっ風呂浴びてリフレッシュしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

体験談

私の“体験”を書いておきますが、正直なところこれが何なのかは分かりません。ただの妄想の可能性は十分にあります。

自分で影響されやすい性質だと思う方は、こういう話はお読みにならないほうが良いかも知れません。同じことが他の人に起こるとは限りませんし、恋焦がれるあまり妄想や幻覚をそれと思い込むこともあり得ます。

結局のところ自灯明・法灯明なのだと思います。そのことを念頭において、お読みくだされば幸いです。

 

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行動するな!

真理に到達したいなら世俗と正反対の事をすれば良いんじゃないかな?なんて短絡的に考えていますが、この「行動すること」に関しても同じ意見です。

世間ではとにかく行動することが推奨されています。不安を感じたりするのは、具体的な行動を起していないからだ、とか。

たしかに間違ってはいません。家賃が払えないどうしようどうしよう、と言っている暇があればさっさとバイトでもすればいいだけの話ですね。

 

しかし、不安の中でも具体的な物事に対する不安以外のもの、突き詰めれば死ぬ事への恐怖からもたらされるものですが、こういう不安を感じたとき、行動すればするほど真理からは遠ざかってしまうでしょう。

不安や苦というのは、私たちにとって最高の教師なのです。それは何時でもどこにでも四六時中あるもので、覚者を探して師事するよりも遥かに簡単で有効です。不安を感じたときこそ絶好の機会なのです。

私たちはいつも何処か外に真実があると思って彷徨い歩いていますが、とりあえず衣食住がそろっていて、明日にでも飢え死にする心配がなければ、いま少しじっと不安と共に座ってみてはいかがでしょうか。

 

そういう私もいつも不安が頭をもたげて来ますが、これは幼少期に安心を得られなかった事に起因しています。しかしこれは思考や体の癖みたいなものですから、あまり相手にしないようにしています。そのままにしておくと言いますか。これに振り回されて行動したところで、碌な事になりませんしね。

不安を無くそうと頑張る必要はありません。むしろ敵視すればするほど牙をむいてくるものです。湖面が波立っていようと底は穏やかなように、不安が暴れていてもゆったりと構えて居てください。

 

世間で生きるとは

真に仏道を歩みだすと、だんだん世間と折り合いを付けるのが難しくなります。

仏教徒なら世間とも上手くやってナンボ、と言う人もいますけど、悟りの性質上それはやっぱり無理だと思います。世間と距離を保ちつつ接する事は出来るでしょうが、世間の中では生きられないでしょうね。世間で生きられるなら、そもそも出家という行為が必要ないわけですから。 

 

何故世間と折り合いが付かないかというと、世間では「生きる」事が最大の目的だからです。全てが生きるために周っています。世間では生きる事に疑問を持つ事は、最も罪が重い事のように扱われます。

しかし、悟りの第一歩は、その生きる事への疑問から始まるのです。

 

何故生きているのか?生きる事がこれ程苦しいのか?苦しんでいる自分とは何なのか?

 

自分の存在を脅かすものは、何であろうと排除しようとするのが世間の姿勢です。古今東西の覚者が迫害されるのは、死の恐怖を想起させるからなんでしょうね。死と向き合おうとする人は、余りに少ないのです。

 

世間にいる限り、生きる事そしてそれに付随する行為を強要されますが、真理に近づけば近づくほど、その苦しみは増すばかりです。

かと言って、何でもかんでも出家すればいいというもんでもないのが、難しいところ。自分と向き合うことから逃げるために、出家を隠れ蓑にしている場合があるからです。

それに出家ってそんな楽なもんでもないみたいですしね。ある意味世間より厳しい。

 

まあ、日本にいると出家するメリットがほとんどありません。欲や怒りから離れるために、世間と隔絶するのが出家の目的ですけど、日本の坊主なんて世間よりよっぽど欲にまみれていますからね。

だから、世間に生きながら、でもそれに嵌まらないよう、しっかり自分を律することが大事だと思います。

 

悟りを開いて、生き生きと?

仏教では預流果の要件は三結が切れる事とされています。三結とは「有身見・疑・戒禁取」の三つの煩悩です。あとは三宝に帰依していることや、五戒を破らないこと等があります。

預流果になったら俗世間で生き生き生きていけますよ、何てことは一言も言っていません。

 

そもそも預流果になると、真理と世間の常識は完全に正反対なのだという事が理解できます。そして預流果はもはや真理に背いて生きる事はしませんから、世間で生きる事は逆に辛くなるのではないでしょうか。真理を実践しながら社会に反しない事は、昔の素朴な生活ならいざ知らず、現代では極めて困難だと思います。

勿論生きていく場所を選べば可能ですが、そうすると精神的には楽に成りますが物質的には困窮するかもしれませんね。

 

そもそも、自分らしく生き生きと、なんて言いますが、その確固たる自分何てものは存在しない事を悟ったのが預流果なのに、どうやって自分を生きる事ができるのでしょうか。

 

こういった事を言う人が、本当に預流果なのか、単なる悟りへの憧れでホラを吹いているだけなのか、それとも悟りへ向かわせようとぶら下げたニンジンなのか、見分けが付かないのが困りますね。

 

悟れば楽になる事は間違いないでしょうが、それが世間で生きる事とイコールではない事は、きちんと踏まえておく必要があると思います。むしろ世間からしたら頭のおかしい人扱いされると私は思いますがね。

 

 

 

悟りは一瞬

たまに、日々修行していると段々と変容してきた、みたいな事を言う人がいるんですが、それはまあ勘違いだと思います。

 

無我を体験するのは本当に瞬間的に起こる事で、日々瞑想して修行してじわじわ悟りました、なんてことはありません。

悟りの“階梯”と言われているのも、実際垂直に移動するからなんだと思います。垂直といってもエレベーターじゃなくて瞬間移動のような感じかもしれません。

 

もちろん、日々精進する事で人格は向上することはあるでしょう。人に優しくできる様になったとか、怒ることがなくなったとか。でも自分は大分怒りが少なくなった、欲もなくなってきたから、既に悟ってんじゃないの~、みたいなことは残念ながらありません。

 むしろ逆で、悟ったから怒りや欲が無くなるわけです。それまでは単に怒りや欲の反応が出ていなかったか、あるいは弱まっていただけで、なくなったわけではないのです。

まあ、欲や怒りから離れることは、とても大事なことですけども。

 

どのぐらい修行が進んだとか、人格の向上とか、そういう余計な事は考えずに、粛々と過ごせば良いと思いますよ。

 

 

仏陀のありがたい公式

輪廻や宇宙について、仏陀は説明しない(無記)としました。

まあ私のような凡人は輪廻の仕組みに興味津々なんですけど、実際それを知ったところで苦しみがなくなるわけじゃありませんから、どうでもいい話なんですよね。

 

たとえば数学や物理などは公式が沢山出てきますが、公式というのは途中経過をすっとばした最終結論ですよね。でもその公式の成り立ちを知らなくても問題は解けます。しかもそれで十分、試験には合格できるわけです。

試験で一から公式を導くなんてことをしていれば、あっという間に時間切れになってしまうでしょうね。頭はいいかも知れませんが、それでは合格できません。

 

輪廻や宇宙の仕組みなどは、公式が導き出されるまでの途中経過みたいなもんなんですね。

つまり知る必要がないし、時間の無駄です。

仕組みが知りたければ、さっさと合格してから好きなだけやればいいわけです。

 

仏陀は公式を残してくれていますから、私たちはそれを使うだけですね。

ありがたや~ありがたや~(-人ー)

 

ディズニーランドと輪廻

私の同僚にもディズニーが大好きな人がいます。年に何回も行ってはイベントやその限定のグッズなどを買ったりして楽しんでいます。

運営側も何度も足を運んでもらえるように、ありとあらゆる仕掛けを作っていますね。

アトラクションや食事、パレード、そしてお土産なんかを買って、あー楽しかったね。

 

また来たい!

 

はい、これが罠なんですね(笑

何だかんだ言って楽しかったな~、でもあのアトラクションには乗れなかったな~、次はもっと計画的に楽しも~。こんな具合に何度もディズニーへ通う事になるわけです。

輪廻もこれと同じような事ですね。

何だかんだ言って楽しかったな~、でももっとやりたい事あったな~、次に生まれたらこんな事したいな~、とか。

 

逆に恋人や友達と来た場合、まあ大体喧嘩しますよね。長い待ち時間にイライラしたり、相手に連れまわされて疲れたり。そういう人たちはもしかしたら二度と来たくないと思うかもしれません。でもそれは一緒に来た人が嫌なのであってディズニーそのものを嫌いになったわけではありませんから、また別の人と来よう、となるわけです。

最悪な人生だった、次はもっと違う人生を送ろう。といった感じで。

まあディズニーの場合はお金がかかるだけだから良いんですけどね。

 

人生の全てが順風満帆で最高に楽しめる環境だったらどうでしょう。また生まれても良いかな?なんて思いますよね。私はイエスの「富んでいる者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい」という言葉の意味はこの事を言っているんじゃないかなと思いました。

私も子供のころ、バイキングというアトラクションに何十回と乗り続けた事があるのでわかりますが、楽しかった、のあとに続くのは、もっと楽しみたい、なんですよね。ここいらで満足しておこうというのはなかなか難しい。たとえ一つの事に満足出来たとしても、まだまだ無数のアトラクションがこの世には存在しているのです。

 

同じように「貧しきものは幸いなり」 と言う言葉は、持たざるものの方が未練や執着を捨てやすいからなんだと思います。この世に見切りをつけるというか、諦めるというか。まあ次こそはリベンジしてやる、という別の執着を持つ可能性はあるんですけどね。

 

そんなわけで、この世界はリピーターを増やす為、実に巧妙に工夫されたテーマパーク、といえるのかもしれません。

 

※ちなみに、何故ラクダが針の穴をとおるのだと疑問でしたが、元の言語では綱という意味もあるそうで、確かに綱みたいに太いものでは針穴は通らないだろうなと納得しました。また、馬鹿馬鹿しく有り得ないことの例えに「ゾウが針の穴をくぐる」という慣用句があるらしく、それをもじったという説もあるそうです。そうだとしたら中々お茶目な人ですね^^