いかに自己責任が無責任か
冤罪薫る初夏の候~ダブルスタンダードを添えて~
痴漢の被害もその冤罪もぜんぜん減りませんね。これは個人の自衛よりも社会的な構造に問題があると思うんですがね。まあ置いといて。
先日も痴漢に間違われた(と主張する)男性が線路内に侵入し電車にはねられたという事件がありましたけど、ネットの反応はいつもどおり「冤罪許せん!女は○ね!」という感じです。
いつも「痴漢に会うのは女が悪い、自己責任」といきまいている人は「冤罪に会うのは男が悪い、自己責任」と言ってほしいところなんですがね。残念。
さて、まずこの「自己責任」がいかに「無責任」かという話ですけど、大方の人は天災などは自己責任ではないと考えているかと思います。本当にそうなのか?
例えば、何かの試験があるとして不合格になったとする。勉強が足りなかった、もっと努力しろ自己責任だ。これは分かりますね。
彼ら自己責任論者の理論に沿って言えば、この日本はもともと地震が多いことが分かっているのだから、地震のない国に移住しなかったのは自己責任だ、となってもいいはずなんですけどそうはならない。お金が無いから移住できない?金を稼ぐ努力をしろよ、金がないのは自己責任!普段あれだけ貧困は自己責任だって言っているでしょ。
ここで痴漢の話にもどりますと、
女性が痴漢の被害に会う
→満員電車なんかに乗っているのが悪い
→男を誘うような服装をしているのが悪い
男性が痴漢冤罪の被害に会う
→満員電車なんかに乗っているのが悪い
→女のそばに立っているのが悪い
となってもよさそうなもんですけどね。どうですか。
結局のところ、自分には無関係か限りなく関わりがないように思える場合は自己責任と言っているだけのようですね。自分にも降りかかってきそうな事は、自分が其の立場になれば自己責任だと責められるわけですから。巷にはびこる自己責任論はどうやら卑怯者の戯言のようです。
ちなみに車内が空いていても痴漢するヤツはするので、被害にあいたくない人は、男女問わず各々自衛することを推奨します。
しかしまぁ、こういう議論は責任の所在と自衛することの是非をごっちゃにしているからいつまでたっても平行線をたどっているのではないでしょうか。
事件の責任は加害者にあるし、自衛の責任は本人にあるし、構造的に犯罪を防止する責任は社会(鉄道会社や政治)にあるし、冤罪の責任は司法にあるし。
もうそれでいいんじゃないですかね?面倒くさいなぁ~
ここまで言ってきてなんですが、カルマ的な意味合いで言うとやっぱり100%自己責任となるんですけどね。その話は次で。
不誠実な人とは?
だいたい不誠実な人といえば、約束を守らないとか嘘をつくとか、そういった人を思い浮かべると思いますけど、私からすると全ての人間が不誠実です。悟った人を除いて。
なぜかというと、不誠実な人とは「自分が不誠実であることに気づいていない、向き合おうとしない人」だからです。
もし、自分が心の底から不誠実だと分かってしまうと、もう生きている事そのものが苦しいので生きていられません。自殺するか、死ねないなら発狂するしかない。
たまに自分は善人じゃないとか言い出す人間もいますけど、結局は自己正当化しておしまい。
別に人間だから、生存欲があるから、そのために何でもしてしまう、ということについて私は肯定も否定もしません。それは別に不誠実だとは思いません。ただ欲というのはどうしようもないな、と思うだけです。
その事に向き合おうとしない姿勢そのものが不誠実なんです。
注意!
人生を無事に過ごしたいという人は、決して自分と向き合ってはいけません。下手したら悟っちゃうかもしれないですし(笑
偏見だらけのこの世の中
- その決断、実は偏見だらけ! Googleの社員教育で実施された、“無意識バイアス”に関する講義 - ログミー
- 男性が女性よりもプレゼン上手に見えるのはなぜか? Google社内で行われた「無意識バイアス」に関する講義 - ログミー
- 「女性は数学が苦手」という固定観念がテストの点数を下げる!? 思い込みがパフォーマンスに与える影響 - ログミー
私が「あなたの判断は偏見に満ちています」といっても負け犬の遠吠えのごとくあしらわれてしまいますので、こういった方々の研究は大変ありがたいですね。
記事をみてもらえばわかりますが、ほとんどの人は自分に偏見があるとは思ってないし、なるべく偏見を排除しようとも努めていません。だから、ちょっと嫌な事、例えば面接に落ちたとかがあってもたいして気にする事ではありません。
たまに思いつめて自殺までしてしまう人がいますけど、何の得にもならないし、誰も同情してくれないどころか、あいつ馬鹿だって言われるのが落ちですから、もっと気楽に生きましょうね。
ジェームズアレンは誤読されているんじゃないかな?
ジェームズアレン著「原因と結果の法則」という本を読みました。世間では引き寄せの法則の先駆者だと評されているようですが、この本はキリスト教圏の人間が書いた仏教の解説書のように思います。著者はシェイクスピアなどの文学を読み漁っていたらしいので、内容が詩的で分かりづらいのかもしれません。
誤読の一例として「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」を見てみます。
ここで一番誤解されているのは、人間≠思いであるという部分です。世間の書評や引き寄せの法則に利用されている解釈は、人間=思いであって、「思い」が主人であって人格や環境を作るとなっていますが、上の文章みてもちゃんと人間が主人であると書いていますよね?
× 思い ⇒ 人格、環境、運命
○ 人間 ⇒ 思い、人格、環境、運命
(ここで言う人間というのは一般には真我と呼ばれるものと考えてよいと思います。)
つまり、「思いとか人格とか環境とか、そういったものを自分だと思い込んでいるけどそうじゃないんだよ」、とこの著者は言っているのではないでしょうか。
これってとっても仏教的。
しかしまあ、「人間は思いの主人であり・・・」これだけはっきり書かれていながら人間=思いと考えるのはどういうことでしょうか。う~ん・・・私がなにか見落としているのか・・・?
まあそんなわけで、ジェームズアレンの著作を引き寄せの法則を目的として読むより、西洋人が仏教を知る取っ掛かりとするのが良いのではないでしょうか。
しかしながら、「はじめもよく、中ごろもよく、終わりもよい」教えというのは余程の才能か訓練が必要なので、やっぱり仏陀の教えを直接学ぶのが、一番だと思います。
スピ的説教は無意味
あまたいるスピリチュアルティーチャーはこういいます。
「あるがまま」「今を生きましょう」
あるがまま、とか、今を生きる、とかそれ自体は問題ないし本当はそうするよう努めるのが良いと思いますが、それを凡夫に言ったところで毒にも薬にもならないんですよね。何を持って「あるがまま」っていうんでしょうか。あなたにはわかりますか?
悟りといっても色々段階があって仏教では、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、不還果(ふげんか)、阿羅漢果(あらかんか)の四つの段階があるといいます。悟りにさえ段階があるのに、真理を垣間見た事もない凡夫に「今ここ」とか言ったところで、理解できるはずがないのです。
時にはそれで理解できる人も居るでしょうが、そういう人は過去に散々探求してきた人とか、特別に欲が少ない人とかであって、理解できない人には実際に体験できるような手段が必要なのです。
覚者の真似をしてみるという点では、ありなのかもしれませんが、現代人が社会生活を送りながらするにはかなり難しい。普通に社会不適合者になります。
どうせ社会不適合者になるなら、一か八か極端まで突っ走ってそこから飛び降りたほうが余程悟れる可能性があるのではないでしょうか。まあ何の保証も出来ませんが。
仏教は基本的には相手に合わせて説教をするのですが、残念ながら、仏典にはそういう分類はありません。凡夫向けの説教、預流果向けの説教というのがあると思うのですが。
しかし、どの段階にいてもやることは同じ(瞑想と内観)だから、そういう分類は省いたのかもしれませんね。
なんちゃってスピ?
昔から世の中が行き詰ってくるとスピリチュアルブームが起こるみたいですね。それ自体はどうでもいいんですけど、問題はその中身ですよね。
さて、真実を求める人間としてはこれら有象無象のスピリチュアルティーチャーのうち、本物と偽物を見分ける必要があります。
私の判断材料として、基本的に高額な料金を払わせる輩は偽物であると思っていいと思います。だって、本当に悟りを得ているなら心を煩わせるようなお金儲けからは、なるべく遠ざかろうとしますからね。その時点でちょっとおかしいわけですね。
しかし、偽物の中には、あるいみ本物もいるところがややこしいのです。
仏教では悟りにも段階があって一番下の段階の悟りでも、悟りには違いないのですが、まだまだ危なっかしい。
そういう人たちは、悟りを得る前よりもっと気をつけて過ごす必要があるはずですが、悟った!ということに執着してしまって戻ってこられなくなってしまうんですね。私は悟ったぞ!全部わかっちゃったもんね!わーいわーい\(^^)/ってなもんです。こういった人たちが、本を出したりセミナーを開いたりしてしまって居る訳です。
最初は謙虚に自分が発見したことだけを発信しているひとでも、段々と増長してきてしまって収集がつかなくなっているのが、昨今のスピリチュアル業界ではないかなと思います。
そういうのって、最初から騙す目的やあるいはビジネスとしている人より質が悪いような気がします。時々真実が含まれているだけに余計に人々を混乱させることに。 まあ、お金を払って自己の(スピ的な)欲望を満たす、対価を払ってサービスを受け取るビジネスだと思えばそんなもんか。
しかし、真理を求める人にとってはやっぱり遠回りすることに変わりなく、時間やお金も無駄になってしまいます。
だから、なんか分かったようなどこかの焼きまわしのような事を言って、いたずらに迷わせるような輩はしっかり「これはビジネスですよ」と宣言して欲しいものです。
人間は「自分が正しい」としか思えない
その所為で世の中から争いがなくならないわけなんですが、
この「自分が正しい」というのは本当に厄介なんです。
いやいや「自分は正しい」なんて思ってませんよ、といいますよね皆さん。
しかしそれは、
「自分が正しくない」ことを「自分は正しい」と思っている
ってことなんですよ、ややこしいですけど^^;
そういうわけで、「自分が正しい」から抜け出すのは至難の業なのです。
そしてこの記事は正しいと思っている私なのでした。
言葉の限界
昨日言葉の定義について書いといてなんですけど、どれだけ定義したところでやっぱり言葉には限界があるんですよね。
群盲象を評す
3人の盲人が象を触り、それぞれが足を触り「これは丸太だ」、鼻を触り「これはロープだ」耳を触り「平べったいものだ」と三者三様の意見を発言するという話からきている言葉。個々の意見はそれなりに正しいが、全体像としては間違っているという意味で使用される。(wikipediaより)
このことわざのとおり、どれだけ言葉を重ねてもゾウそのものをあらわす事は出来ないということですね。
ペンは剣より強しなんていいますけど、もうちょっと言葉に対する万能感に危機感をもってみたらどうかなと思います。
そうしたら、私のような口下手でも損する事は少なくなるんじゃないですかね(笑
議論するときは言葉の定義をきちんとすること
言葉の定義ってすごく大事だと思うんですが、そこを曖昧にしたまま議論を始める人がすごく多いと思います。
たとえば、「お塩少々」というのは私にしたら本当に一つまみぐらいの感覚ですが、料理番組なんかみていると結構どばどば入れていたりしますよね。
定義を基準と言い換えても同じですが、自分の思う基準と相手の思う基準が違えば、いつまでたっても平行線を辿るのは明白です。
そこのところ、もっときちんとすれば、世の中の不毛な言い争いは少なくなるのではないでしょうかね。
そうしたら今度はその定義を決める段階でもめちゃうかもしれませんな(汗