なんちゃってスピ?
昔から世の中が行き詰ってくるとスピリチュアルブームが起こるみたいですね。それ自体はどうでもいいんですけど、問題はその中身ですよね。
さて、真実を求める人間としてはこれら有象無象のスピリチュアルティーチャーのうち、本物と偽物を見分ける必要があります。
私の判断材料として、基本的に高額な料金を払わせる輩は偽物であると思っていいと思います。だって、本当に悟りを得ているなら心を煩わせるようなお金儲けからは、なるべく遠ざかろうとしますからね。その時点でちょっとおかしいわけですね。
しかし、偽物の中には、あるいみ本物もいるところがややこしいのです。
仏教では悟りにも段階があって一番下の段階の悟りでも、悟りには違いないのですが、まだまだ危なっかしい。
そういう人たちは、悟りを得る前よりもっと気をつけて過ごす必要があるはずですが、悟った!ということに執着してしまって戻ってこられなくなってしまうんですね。私は悟ったぞ!全部わかっちゃったもんね!わーいわーい\(^^)/ってなもんです。こういった人たちが、本を出したりセミナーを開いたりしてしまって居る訳です。
最初は謙虚に自分が発見したことだけを発信しているひとでも、段々と増長してきてしまって収集がつかなくなっているのが、昨今のスピリチュアル業界ではないかなと思います。
そういうのって、最初から騙す目的やあるいはビジネスとしている人より質が悪いような気がします。時々真実が含まれているだけに余計に人々を混乱させることに。 まあ、お金を払って自己の(スピ的な)欲望を満たす、対価を払ってサービスを受け取るビジネスだと思えばそんなもんか。
しかし、真理を求める人にとってはやっぱり遠回りすることに変わりなく、時間やお金も無駄になってしまいます。
だから、なんか分かったようなどこかの焼きまわしのような事を言って、いたずらに迷わせるような輩はしっかり「これはビジネスですよ」と宣言して欲しいものです。
人間は「自分が正しい」としか思えない
その所為で世の中から争いがなくならないわけなんですが、
この「自分が正しい」というのは本当に厄介なんです。
いやいや「自分は正しい」なんて思ってませんよ、といいますよね皆さん。
しかしそれは、
「自分が正しくない」ことを「自分は正しい」と思っている
ってことなんですよ、ややこしいですけど^^;
そういうわけで、「自分が正しい」から抜け出すのは至難の業なのです。
そしてこの記事は正しいと思っている私なのでした。
言葉の限界
昨日言葉の定義について書いといてなんですけど、どれだけ定義したところでやっぱり言葉には限界があるんですよね。
群盲象を評す
3人の盲人が象を触り、それぞれが足を触り「これは丸太だ」、鼻を触り「これはロープだ」耳を触り「平べったいものだ」と三者三様の意見を発言するという話からきている言葉。個々の意見はそれなりに正しいが、全体像としては間違っているという意味で使用される。(wikipediaより)
このことわざのとおり、どれだけ言葉を重ねてもゾウそのものをあらわす事は出来ないということですね。
ペンは剣より強しなんていいますけど、もうちょっと言葉に対する万能感に危機感をもってみたらどうかなと思います。
そうしたら、私のような口下手でも損する事は少なくなるんじゃないですかね(笑
議論するときは言葉の定義をきちんとすること
言葉の定義ってすごく大事だと思うんですが、そこを曖昧にしたまま議論を始める人がすごく多いと思います。
たとえば、「お塩少々」というのは私にしたら本当に一つまみぐらいの感覚ですが、料理番組なんかみていると結構どばどば入れていたりしますよね。
定義を基準と言い換えても同じですが、自分の思う基準と相手の思う基準が違えば、いつまでたっても平行線を辿るのは明白です。
そこのところ、もっときちんとすれば、世の中の不毛な言い争いは少なくなるのではないでしょうかね。
そうしたら今度はその定義を決める段階でもめちゃうかもしれませんな(汗