別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

(ひとりごと)これ禅定なのか?

自称一来果の人のブログで、「預流果になるとその時点で禅定を得ていなくてもあとは勝手に禅定に達する」みたいなことが書かれていて、ほんまかいな~と思ってたんですけど、何か最近これがそうなのかなという感じが増えて来ました。

私は座禅が組めないのでいつも寝っころがっているんですけど、そうするとある瞬間、静寂の中に入ったような感覚があるんですよね。それに遭遇すると本当に楽チンだし何だか嬉しいし、幸せな感じがします。

 

禅定には5つの感覚があって、禅定が深まるにつれてその要件は減っていくそうなんですけど、それに当てはめてみるとどうやらこれが第一禅定なのかなと思います。勘違いだったら恥ずかしいですけど。

しかしまあ、たかが第一禅定でもずっとこの状態が続けばいいのに~と思うぐらいには楽しいので、禅定の体験にしがみついてしまう気持ちはとても分かります。

とは言っても私は特に修行したりしていないので、せいぜい2~3分で終わってしまうんですけどね。

 

禅定は、それにしがみ付かなければ仏道を歩むための手助けとなりますから、修行してみてもいいでしょうね。

 

 

(ひとりごと)権威に弱すぎる

なんでも、HPVワクチンの反ワクチンキャンペーンと戦った功績をたたえられて、ほにゃらら賞を受賞したという話題がありました。

多くの人が賞賛しているようですが、その理由が「権威ある賞を受賞したから」であることに、毎度の事ながらどうしようもないな~という気持ちになります。

 

実際のところ、彼女の主張は正しいのかもしれませんが、そこは素人には分からない話なので正直どうでもいいのです。

問題は、右の反対は左、論破した側は正しい、そういう思い込みです。

右の反対はさらなる右かもしれないし、論破した側もされた側も実はどちらも間違っていることだってあり得るわけです。今回の一件では反ワクチン派もそれを叩いている人も、結局のところ根は同じなのです。

救えたはずの命ガー、みたいな話もありますが、積極的な接種を推奨しなくなっただけで、ワクチン自体は別に禁止されていたわけではありませんから、打ちたきゃ打てたわけなので、今更何を言っているんだといった感じです。反ワクチン派の言論を信じて打たなかったのは自分でしょう?

 

それに救えたはずなんて、後だしなら何とでも言えます。

残念ですけど死んだときが寿命なんですよ。生きられたはずなんて、あんた死神の目でももってるんですかって話です(笑

自分は科学的だという人ほど感情に訴えかけてくるんだから困ったもんですな。

 

 

個人的には、治療法がなかったり致死性でパンデミックを起すような病気に対してはワクチンは必要だと思います。あきらかにメリットのほうが上回っていますからね。

しかし病を上手に経過することで人間は丈夫になったりもするのですから、その時はワクチンで凌いだとしても、その後体が弱くなる事だってあるわけです。例えば、インフルエンザワクチンは、インフルエンザには罹患しなくても、他の呼吸器のウイルスには罹りやすくなるという研究結果もあるそうです。

 

まあ、野口晴哉先生信者の私としては病気になる権利だって欲しいわけです。病も生の一部だという事ですな。

 

 

以下、陰謀論者による本当にどうでもいいひとりごとです↓

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行動するな!

真理に到達したいなら世俗と正反対の事をすれば良いんじゃないかな?なんて短絡的に考えていますが、この「行動すること」に関しても同じ意見です。

世間ではとにかく行動することが推奨されています。不安を感じたりするのは、具体的な行動を起していないからだ、とか。

たしかに間違ってはいません。家賃が払えないどうしようどうしよう、と言っている暇があればさっさとバイトでもすればいいだけの話ですね。

 

しかし、不安の中でも具体的な物事に対する不安以外のもの、突き詰めれば死ぬ事への恐怖からもたらされるものですが、こういう不安を感じたとき、行動すればするほど真理からは遠ざかってしまうでしょう。

不安や苦というのは、私たちにとって最高の教師なのです。それは何時でもどこにでも四六時中あるもので、覚者を探して師事するよりも遥かに簡単で有効です。不安を感じたときこそ絶好の機会なのです。

私たちはいつも何処か外に真実があると思って彷徨い歩いていますが、とりあえず衣食住がそろっていて、明日にでも飢え死にする心配がなければ、いま少しじっと不安と共に座ってみてはいかがでしょうか。

 

そういう私もいつも不安が頭をもたげて来ますが、これは幼少期に安心を得られなかった事に起因しています。しかしこれは思考や体の癖みたいなものですから、あまり相手にしないようにしています。そのままにしておくと言いますか。これに振り回されて行動したところで、碌な事になりませんしね。

不安を無くそうと頑張る必要はありません。むしろ敵視すればするほど牙をむいてくるものです。湖面が波立っていようと底は穏やかなように、不安が暴れていてもゆったりと構えて居てください。

 

世間で生きるとは

真に仏道を歩みだすと、だんだん世間と折り合いを付けるのが難しくなります。

仏教徒なら世間とも上手くやってナンボ、と言う人もいますけど、悟りの性質上それはやっぱり無理だと思います。世間と距離を保ちつつ接する事は出来るでしょうが、世間の中では生きられないでしょうね。世間で生きられるなら、そもそも出家という行為が必要ないわけですから。 

 

何故世間と折り合いが付かないかというと、世間では「生きる」事が最大の目的だからです。全てが生きるために周っています。世間では生きる事に疑問を持つ事は、最も罪が重い事のように扱われます。

しかし、悟りの第一歩は、その生きる事への疑問から始まるのです。

 

何故生きているのか?生きる事がこれ程苦しいのか?苦しんでいる自分とは何なのか?

 

自分の存在を脅かすものは、何であろうと排除しようとするのが世間の姿勢です。古今東西の覚者が迫害されるのは、死の恐怖を想起させるからなんでしょうね。死と向き合おうとする人は、余りに少ないのです。

 

世間にいる限り、生きる事そしてそれに付随する行為を強要されますが、真理に近づけば近づくほど、その苦しみは増すばかりです。

かと言って、何でもかんでも出家すればいいというもんでもないのが、難しいところ。自分と向き合うことから逃げるために、出家を隠れ蓑にしている場合があるからです。

それに出家ってそんな楽なもんでもないみたいですしね。ある意味世間より厳しい。

 

まあ、日本にいると出家するメリットがほとんどありません。欲や怒りから離れるために、世間と隔絶するのが出家の目的ですけど、日本の坊主なんて世間よりよっぽど欲にまみれていますからね。

だから、世間に生きながら、でもそれに嵌まらないよう、しっかり自分を律することが大事だと思います。

 

悟りを開いて、生き生きと?

仏教では預流果の要件は三結が切れる事とされています。三結とは「有身見・疑・戒禁取」の三つの煩悩です。あとは三宝に帰依していることや、五戒を破らないこと等があります。

預流果になったら俗世間で生き生き生きていけますよ、何てことは一言も言っていません。

 

そもそも預流果になると、真理と世間の常識は完全に正反対なのだという事が理解できます。そして預流果はもはや真理に背いて生きる事はしませんから、世間で生きる事は逆に辛くなるのではないでしょうか。真理を実践しながら社会に反しない事は、昔の素朴な生活ならいざ知らず、現代では極めて困難だと思います。

勿論生きていく場所を選べば可能ですが、そうすると精神的には楽に成りますが物質的には困窮するかもしれませんね。

 

そもそも、自分らしく生き生きと、なんて言いますが、その確固たる自分何てものは存在しない事を悟ったのが預流果なのに、どうやって自分を生きる事ができるのでしょうか。

 

こういった事を言う人が、本当に預流果なのか、単なる悟りへの憧れでホラを吹いているだけなのか、それとも悟りへ向かわせようとぶら下げたニンジンなのか、見分けが付かないのが困りますね。

 

悟れば楽になる事は間違いないでしょうが、それが世間で生きる事とイコールではない事は、きちんと踏まえておく必要があると思います。むしろ世間からしたら頭のおかしい人扱いされると私は思いますがね。

 

 

 

悟りは一瞬

たまに、日々修行していると段々と変容してきた、みたいな事を言う人がいるんですが、それはまあ勘違いだと思います。

 

無我を体験するのは本当に瞬間的に起こる事で、日々瞑想して修行してじわじわ悟りました、なんてことはありません。

悟りの“階梯”と言われているのも、実際垂直に移動するからなんだと思います。垂直といってもエレベーターじゃなくて瞬間移動のような感じかもしれません。

 

もちろん、日々精進する事で人格は向上することはあるでしょう。人に優しくできる様になったとか、怒ることがなくなったとか。でも自分は大分怒りが少なくなった、欲もなくなってきたから、既に悟ってんじゃないの~、みたいなことは残念ながらありません。

 むしろ逆で、悟ったから怒りや欲が無くなるわけです。それまでは単に怒りや欲の反応が出ていなかったか、あるいは弱まっていただけで、なくなったわけではないのです。

まあ、欲や怒りから離れることは、とても大事なことですけども。

 

どのぐらい修行が進んだとか、人格の向上とか、そういう余計な事は考えずに、粛々と過ごせば良いと思いますよ。

 

 

戦記ものアニメ

将国のアルタイル面白いって話をしたので、ついでに他の話も。

 

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【アニメ】将国のアルタイル

私の地域では3週くらい放送が飛んでたんで、それっきり溜めたままだったんですけど、折角連休なので16話まで見ました。

 

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仏陀のありがたい公式

輪廻や宇宙について、仏陀は説明しない(無記)としました。

まあ私のような凡人は輪廻の仕組みに興味津々なんですけど、実際それを知ったところで苦しみがなくなるわけじゃありませんから、どうでもいい話なんですよね。

 

たとえば数学や物理などは公式が沢山出てきますが、公式というのは途中経過をすっとばした最終結論ですよね。でもその公式の成り立ちを知らなくても問題は解けます。しかもそれで十分、試験には合格できるわけです。

試験で一から公式を導くなんてことをしていれば、あっという間に時間切れになってしまうでしょうね。頭はいいかも知れませんが、それでは合格できません。

 

輪廻や宇宙の仕組みなどは、公式が導き出されるまでの途中経過みたいなもんなんですね。

つまり知る必要がないし、時間の無駄です。

仕組みが知りたければ、さっさと合格してから好きなだけやればいいわけです。

 

仏陀は公式を残してくれていますから、私たちはそれを使うだけですね。

ありがたや~ありがたや~(-人ー)

 

ディズニーランドと輪廻

私の同僚にもディズニーが大好きな人がいます。年に何回も行ってはイベントやその限定のグッズなどを買ったりして楽しんでいます。

運営側も何度も足を運んでもらえるように、ありとあらゆる仕掛けを作っていますね。

アトラクションや食事、パレード、そしてお土産なんかを買って、あー楽しかったね。

 

また来たい!

 

はい、これが罠なんですね(笑

何だかんだ言って楽しかったな~、でもあのアトラクションには乗れなかったな~、次はもっと計画的に楽しも~。こんな具合に何度もディズニーへ通う事になるわけです。

輪廻もこれと同じような事ですね。

何だかんだ言って楽しかったな~、でももっとやりたい事あったな~、次に生まれたらこんな事したいな~、とか。

 

逆に恋人や友達と来た場合、まあ大体喧嘩しますよね。長い待ち時間にイライラしたり、相手に連れまわされて疲れたり。そういう人たちはもしかしたら二度と来たくないと思うかもしれません。でもそれは一緒に来た人が嫌なのであってディズニーそのものを嫌いになったわけではありませんから、また別の人と来よう、となるわけです。

最悪な人生だった、次はもっと違う人生を送ろう。といった感じで。

まあディズニーの場合はお金がかかるだけだから良いんですけどね。

 

人生の全てが順風満帆で最高に楽しめる環境だったらどうでしょう。また生まれても良いかな?なんて思いますよね。私はイエスの「富んでいる者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい」という言葉の意味はこの事を言っているんじゃないかなと思いました。

私も子供のころ、バイキングというアトラクションに何十回と乗り続けた事があるのでわかりますが、楽しかった、のあとに続くのは、もっと楽しみたい、なんですよね。ここいらで満足しておこうというのはなかなか難しい。たとえ一つの事に満足出来たとしても、まだまだ無数のアトラクションがこの世には存在しているのです。

 

同じように「貧しきものは幸いなり」 と言う言葉は、持たざるものの方が未練や執着を捨てやすいからなんだと思います。この世に見切りをつけるというか、諦めるというか。まあ次こそはリベンジしてやる、という別の執着を持つ可能性はあるんですけどね。

 

そんなわけで、この世界はリピーターを増やす為、実に巧妙に工夫されたテーマパーク、といえるのかもしれません。

 

※ちなみに、何故ラクダが針の穴をとおるのだと疑問でしたが、元の言語では綱という意味もあるそうで、確かに綱みたいに太いものでは針穴は通らないだろうなと納得しました。また、馬鹿馬鹿しく有り得ないことの例えに「ゾウが針の穴をくぐる」という慣用句があるらしく、それをもじったという説もあるそうです。そうだとしたら中々お茶目な人ですね^^