別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

【映画】ミリオンダラーベイビー

何故か今まで見る機会がなかったミリオンダラーベイビーですが、折角の休みなので見てみました。

 

だいたいの人が、後味が悪いという感想でしたが、私はそうは思いませんでした。

結果だけを見れば、確かにバッドエンドだけれど、自分の人生を生きた、と言えることはとても羨ましいし、彼女の生き様には、何か清々しいものを感じました。

 

教会で、彼女が生きるためには死ななくてはいけない、という一見矛盾した話をしていましたが、このことは誰でも考える必要があるのではないでしょうか。どう生きるか、というのはどう死ぬか、と同じ話のように思います。

人生を全力で生きたなら、その人には死を選ぶ権利があって良い。彼女が死ぬことを阻止することのほうが、尊厳を踏みにじる酷い行為であると私は思います。

 

もし10年前に見ていたら、ただ理不尽さに胸糞悪くなっていただけだったかもしれません。10年後にもう一度見たら、また別の思いが浮かぶかもしれません。人生の節目に見返したくなる、そんな映画でした。

 

 

結局言葉は嘘っぱち

愛とかハートとか神とか大いなる存在とか・・・

そういう分かったような分からないようなものは、全て捨て置いたほうが良いと思います。そういうのって結局自我のフィルターを通しているものだから。

 

悟った人でも外界と接触する際には、言語というフィルターを通す事になります。もちろん凡人とは違って欲とか悪意のようなものはないでしょうが、今までの知識とか環境というものがどうしても影響してきます。

冒頭のようなことを言う人はほとんど西欧人で、聞く側も西欧人なんですよね。で、大体はキリスト教

基本的に説法は相手に合わせてするものだから、愛とかそういう類の言葉が出てくるのかなと思います。

 

だから、自分も日本人なのに、日本人相手にこういうことを言い出す人は、そもそも説法するだけの能力がないのかもしれません。結局どこかの誰かが言った事をそのまま繰り返しているだけ。

西欧人同士なら愛とかでもいいんでしょうけど、私からしたらどうしても底の浅いというか、お寒い感じがしてしまいます。まあ、私はもともと薄情な人間なので、理解するための素養がないということが理由の一つかもしれませんが。

でもやっぱり神とか愛とかいわれると、カルト臭がしてまともな人ほど敬遠しそうな感じです。

 

 

どちらにせよ、悟りに愛はいらないし、ハートもいらないし、慈悲もいらないし、神も仏もいらないし。だから愛の感覚が体験できないとか、どうでもいいんですじゃないですか。人それぞれだし。

むしろその体験が、自我の妄想であるかもしれませんし。

 

結局悟った人の言葉を、悟っていない人が正確に読み取る事は不可能ですから、いくら覚者の言葉といえど、そういうものに惑わされないようにするのが賢明だと思います。

 

 

【映画】アナと雪の女王

録画したまま放置していた「アナと雪の女王」を見ました。今更ですがちょっと感想など。

 

とにかく日本語訳が酷すぎる!

話のつながりが悪いとかじゃなくて、つながってない!私の頭が悪すぎるのか?と思って2回見たけど、やっぱりおかしい。

ネットで調べてみても、同じような意見があったので、私だけがポンコツなわけではなさそう。

 

元の英語を見ながら補完した内容は、はっきりいって「みんなで歌おう」とかそんな能天気な話じゃないだろ、と思いました。これって毒親とか外部環境が原因で抑圧された子供達が自分を取り戻して行く、という話ですよね。最終的にはそれを克服して、自分らしさを取り戻す事ができたので、ハッピーエンドには違いないんですけど、私にはそんな無邪気に楽しむことが出来ませんでした。

まあ自分を排除した社会に戻れたことが、ハッピーかどうかはわかりませんけど。

 

純粋にこの映画を楽しめた人は、鈍感なのかな?

逆に貶す人は、無自覚ACじゃありませんかね?

エルサたちはまあハッピーエンドでいいですけど、本当に見なきゃいけないのは、エルサたちを取り巻く社会のほうでしょう。そこを無視しておいて、「わーいみんなうたおー☆」or「メンヘラ乙」、と言える神経というのは本当に理解しがたい。

人間の、というか日本の闇を感じます。

 

自分が生きていくだけで一生懸命なのは分からなくもないけど、それにしても他人の苦悩にあまりにも鈍感すぎる。やっぱり教育が全ての元凶かな、という気がします。日本の教育って、結局兵隊をつくるためですからね。

人間なら生きづらくて当たり前ですわな。

 

 

結論としては、日本語訳は最悪。松たか子と神田沙也加は最高。あと全体的に尺が足りてない印象でした。

 

 

指導者(覚者)に共通する事

わざわざ表に出て、人々を導く方たちというのは、基本的に言語能力に優れています。元々備わっていたか成長過程で獲得したものかは分かりませんが、言葉に出来ないことを説明しようとするのですから、必須の能力と言えます。

 

しかし、言語能力が優れているが故に、よくわからん、という事態に陥っているように思います。みんなどことなく詩的なんですよね、表現の仕方が。

そして、分かりやすかろう、と思うかどうかは分かりませんが、既存の言葉を使ってしまう、という点が誤解を招いています。

同じ文化圏に育った者ならまだしも、日本人としては愛とか神とか言われちゃうと、なんとなく身構える人も多いんじゃないですか?私なんかはゾワゾワしちゃいますよ。

それに日本人には当たり前すぎて、わざわざ言語化しないもの、というのは意外と多いので、西欧人のいうことが、あたかも何か特別なもので、今から獲得しなければならないような気になってしまうんですよね。

それで、こんがらがったり、独り相撲してしまう人が、案外いらっしゃるんじゃないかと思います。

 

 

もう一つ問題があるとすれば、それは聴衆のレベルに左右されるという事です。基本的に対機説法となるわけですから、相手によっては、ちぐはぐな説法になってきます。そうすると周りで聞いてる者は覚者に対して疑いをもつのです。

 

お釈迦様の場合、説法の相手は基本的に僧侶です。当時の僧侶というのは、知識もあるし探究心もあるし、おまけに社会的地位もあるエリートです。つまり聞く側はちゃんとその素養があったのです。

もちろんお釈迦様の能力が優れていたのは間違いないでしょうが。

 

まあそんな感じで、現代において覚者の周りに集まるのは、覚者をアクセサリーにする者か、石を投げるものか、そんな事になってしまうのでしょうかね。

 

 

 

つくづく母親の影響と言うのは大きいなと思う。

 

私の家はそれなりに貧乏だったので、贅沢はできなかったが、時々はプレゼントなどを貰ったこともある。

しかし、貰って嬉しいプレゼントというのは一つもなかった。なぜならどれもこれも母の独りよがりだからである。ちなみに父も同じであるが、こちらは数が少ないので、良くも悪くも印象にないのである。

 

一番嫌だったのが、高校生のときに買ってくれた電子ピアノである。ある朝、さあ出かけるぞ、と無理やり連れ出され、楽器店のピアノの前で「さあどれにする?」とやられたときだ。もちろんピアノは嬉しい。だが私の性格的に買い物をする時は相当吟味しないと気がすまないので、母のやり方は非常に腹が立ったし、またか、とも思った。

まず、どこにいくか、なにをするか、全く聞かされていないという時点でもう苛立ちは極限だった。電子ピアノにしたってヤマハ・河合・ローランドとメーカーごとに特色があるし、ピアノを買うかどうか、というそもそもの選択肢を与えられないということが嫌だった。

 

母にしてみれば自分がして貰えなかったことを、子供にすることで満足しているのだろうが、

そこには「あんたは良いね、親にこんなに良くしてもらえて。私は何にもして貰えなかった」という妬みがあるのだ。もちろん本人は気付いていない。

 

いつもそうだったから、私は人から何か貰うのがとても億劫になってしまった。上手に喜んであげられない自分も情けなかった。

 

 

昨今では、人は何かをすることばかりに気を取られているが、時には何もしないことが重要な事もある、ということを今一度考えてみてほしいと思う。

 

「それ」の話

「それ」とか「 」とか、もっと具体的に説明して!って言いたくなるんですけど、結局そうとしか表現出来ないのかなと思います。

 

判断、分析というのがそもそも自我の働きなんですけど、「それ」があるときには、自我が不在か、完全に停止している状態にあるのだと思われます。

 

私は「それ」を「空白」だと認識しているのですが、睡眠と似ているのではないかと思いました。

自分が何故寝ていたと分かるのかというと、時計の進み具合とか、空が白んできたとか、或いは誰かに指摘されたとか、外部環境から自我が判断しているんですよね。寝ている間中、意識があるわけじゃありません。

 

「それ」の時も同じで、自我は寝てしまっているので、「それ」を直接認識する事が出来ません。しかし、のこのこ後からやって来ては、今のはあーだこーだと勝手に分析しだす。

認識するための自我はないけど、意識はある、というのが睡眠との違いでしょうか。

 

そして、これは妄想ですが、のこのこ自我が舞い戻って来ない場合を大悟と言うのかもしれません。まあ、妄想です。

 

 

「それ」については、覚者の個性によって説明の仕方も様々ですよね。光だとか神だとか或いは空、はたまた無だとか。でもこれらの言葉って手垢にまみれているというか、聞いた人の観念によって捻じ曲げられる危険性が、

というか既に皆好き勝手に解釈してますよね。妄想が暴走、なんつって。

 

結局のところ、なるべく誠実に「それ」を表現しようとすると、「それ」という説明になってしまうのでしょうかね。

 

なんともスッキリしない話ですが(笑

 

 

 

中学のころを思い出すに、私は臆病なところがありつつも、結構自分に正直に生きていたように思う。もちろん子供特有の無責任さもあっただろうが、まだ余裕があったのだ。

じゃあいつから余裕がなくなったかというと、中学の終わりに両親が離婚してからだ。

ちなみに、親は私に離婚すべきかどうかを聞いてきた。私はすべきと答えた。高校受験の一週間前だった。ホントふざけてる。

 

私はずっと家庭不和の原因は父親だと思っていたが、それは間違いで、実は母親がそう仕向けていた、ということを離婚後、母と暮らすようになってから思い知った。

私にとってはクソッタレの父親こそが、安心の正体だったのである。もちろん母は被害者気取りである。

 

父と私、二人だけのとき、父はとても落ち着いていた。まあ子供にどう接していいか分からないような、不器用さはあったものの、理系らしく知識も旺盛で、電化製品の仕組みなんかを教えてくれるのは、とても楽しかった。

しかし、多くのDV家庭がそうであるように、結局は共依存なのだ。母と暮らすようになって、何が父をいらだたせるのかよくわかる様になった。

母には悲惨な生い立ちの所為で、自分がどう思っているかを表現できないところがあった。考えてもわからないのではなく、考える事そのものを放棄しているのである。何を聞いても「難しくてわからない」と言うのだ。ただ好きか嫌いか、気に入るのか気に入らないのか、そんな単純なことを聞いているだけなのに。

そのことが、父と私には耐えられなかったのだ。

 

まあ父にももちろん問題はあったが、私にとっては逃げ場であったことも間違いなかったのだ。しかし、母と暮らすようになって、逃げ場がなくなった。母のゆがみを一人で受け止める事になってから、私はより一層おかしくなっていった様に思う。

 

というか兄も一緒に暮らしていたはずなんだが、兄は両親の離婚のときにも、心底驚いていた(あんなに殴られてたのに信じられない!)くらいなので、まったく宛にならんのである。

まあ母の呪縛から離れた今となっては、兄も健康な精神を取り戻したみたいなので、母の事は兄にまかせておこうと思う。

 

 

 余談だが、離婚後しばらくしてから母は「離婚したくなんてなかった、あんたが言うからした」と言った。今ならビンタの一発でもかましてやるだろうが、当時は申し訳なさでいっぱいだった。洗脳とは恐ろしいものである。

というわけで、皆様も被害者面した加害者にはご注意ください。

 

ふと思い出したけど、私は中学のとき部活に入らなかった。公立中学というのは基本的に部活動は強制のはずだった。

吹奏楽があればやってみたかったが、残念ながらなかった。高校でもなかったので縁がなかったものとして諦めた。

 

入学して1週間ぐらいの放課後、部活見学会へ行けという指示が出たが、

「私は部活に入りたくないので帰ります」

と白紙の入部届けをつき返して帰ってしまった。先生がそのときどんな顔をしていたか覚えてないが、初っ端から私の印象は最悪だっただろうと思う。

大体は部活に入るものの、途中で退部するというのが一般的だったから。

というか、先生もよく許したな。

 

今となっては、中学の私はなんと自由人なんだろうと羨ましくなる。いったい、何時こんな人間になったんだろう?

 

禅問答の消費期限

私は禅については全くの素人であるが、いろんな人がしたり顔に問答しているのを見ると、何か違うんじゃないかと感じる。

 

禅問答、公案というものには答えらしい答えがないが、実はそれこそが禅の極意なのではないか。実際は、悟りの後には公案の言わんとすることが分かるのだが、その前には決して答えが無いのである。

流れにするとこんな感じだろうか。

 × 公案→答え→悟り

 ○ 公案→  →答え

つまり答えが分かったから悟りに達するのではないのである。

公案を与えられた者はそれについて一生懸命考えるが、探せども探せども答えは見つからず、これだと思う答えはことごとく師に叩き潰されてしまう。

公案というのは結局のところ、思考を完膚なきまでの敗北に追い込む為の道具なのだろう。

 

現代における禅の問題とは、公案とその答え(らしきもの)が世に氾濫してしまっていることだ。詰め込んだ知識が邪魔になっていて思考を叩きのめす事が非常に難しくなっているように思う。

 

後の時代になればなるほど悟るのが難しいというのは、こういうことにも原因があるのやもしれぬ。

 

なんちゃって(´-`)

 

 

謝りたくない!

とにかく謝っておけば良いという人間が多すぎると思います。逆に何が何でも謝らないという人も同じくらい多いですが。

私は自分で言うのも何ですが、結構公平(なつもり)です。相手の言い分が正しければ謝罪する事に何の躊躇もありません。

ですが、大前提としてお互いの意見を出し合って事実関係を明らかにすること。そうでなければ絶対に謝りたくないし、逆に謝られたくない。

とにかく謝れという人もいますけど、どうしてそれで満足できるのか私には分かりません。謝罪よりも何故齟齬が生まれたのか、何が原因で問題が起きたのか、そちらの方が大切ではありませんか。

 

とにかくその場を収めようとして、悪かろうが悪く無かろうが、親に無理やり頭を下げさせられたことがありますけど、絶対にやってはいけないことです。この恨みは結構根深いものになります。

 

「こころ」という小説では、

将来侮辱を受けないために今の尊敬を退けたい、と「先生」は言っていました。

頭を踏みつけられた者は今度は自分が踏みつけるようになる。俺が苦しんだんだからお前も同じように苦しめ。

日本中がこの負の連鎖に飲み込まれているように思います。

 

 

謝ってるんだから、反省してるんだから。だから許してやれ。だからこれ以上原因を追求するな。

こういうのも日本人には多いですね。話し合おうと言っているだけなのに、まるでこちらが悪者みたいに扱われてしまい、結局何の解決にもならずまた同じことを繰り返す。

いつになったら学習するのか。

 

もっと本質的なことに目を向ける必要があるんじゃないですかね。