別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

悟りはビジネスにならない

三結が切れたのだとわかった時、私はそれを母に説明しようとしました。そして一言二言話し始めてすぐ、ああこれは無理だな、と思ったのです。

 

一つ目は、言葉で説明する事は至難の業だという事です。もともと話し上手ではありませんでしたが、本だけは読んでいたので語彙力はある方だと思っていましたが、そもそもそれを表す言葉が存在しないんですね。あれこれ工夫してみても、結局月そのものではなく、それを指し示す手でしかない、という事を痛感しました。

 

二つ目は、母は少なくとも私の話を聞いたぐらいでは悟れないとわかったからです。母は口では楽に成りたいと言っていましたが、本当にはそう思っていないという事です。いや、本人は心の底から思っているつもりなのかもしれませんが、そう思わせるのもまた、巧妙な自我の働きなのだと思います。

仏性という言葉があるように、誰しも悟りを開く可能性はあるのかもしれませんが、種子を発芽させる、そのための土壌がないのです。私は絶望によってその土壌を自分で用意しましたが、それは必要にかられたからという理由でしかありません。母のように、本当には切羽詰まっていない人が、自力で土壌を用意するのは難しいのかもしれません。

そして、残念ながら私には他人に土壌を用意してやれるだけの力量がありませんでした。

 

母に対して色々思うところはありましたが、同じ苦しみを背負う衆生の一人として、やっぱり楽になって欲しいと思っています。しかし、それがどれほど困難な事か。仏陀と比べるのはおこがましいですが、梵天に諭される前はこんな気持ちだったのかもしれないなぁと思いました。説明を放棄した私を、母は法螺吹きだと思っているのでしょうね。

 

お坊さんなんかは、毎日毎日訳のわからん有象無象相手に説法しているのだから、本当に大変だと思います。OSHOという人は、自分がマスターとして活動しているのは、カルマの働きだと言っていたそうですが、それってあまり良いカルマではなさそうに思います。

どれほど話しても分かってもらえないという徒労感は、別に悟りじゃなくても味わった事がある人も多いと思いますが、それを死ぬまで続けるのだから、難儀な事です。

私は自分には人を導くような能力がなくて、むしろ良かったのだと思います。適当な事言って大勢を惑わす事もないですから、余計なカルマを積む事もないですし。

 

まあ、不幸(?)にもこのブログを見てしまった方のために、是非原始仏教に触れてくださいと言っておきます。

重要なのは、四聖諦、八正道、因縁、そして瞑想です。

各項目の説明はテーラワーダのホームページで十分理解できると思います。別に回しもんじゃありませんが、よくわからない人のブログでの説明より、断然良いと思いますので。お金もかからないし、変なスピに触れて感化される心配も無いですしね。

 

お金払って悟れるなら、いくらケチの私だって500円くらいは出しますよね^^