別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

偽善と善

さあ、今年も偽善だ何だと罵り合う季節がやってきましたね^_^

 

毎年毎年、やらない善よりやる偽善だ!とこれまた偽善的な事を喚き散らしておりますが、そもそも善とは何か、偽善とは何か、ちゃんと言葉の定義をしてから始めてもらいたいものです。

 

さて、仏教において善とは何かというと、不貧・不瞋・不痴の心に基づいた行為、簡単に言うと欲望から離れること、自分の心が綺麗になることが善とされます。

だから募金してお金への執着を手放す事ができるなら、それは善行為となります。

 

しかし、人間の心の構造上、全くの見返りを求めないことは不可能です。心が清らかになりますように、というのも究極を言えば欲です。だから悟らない限り、どのような行為にも利己的な心が入り込みますので、偽善とも言えるわけです。

 

そんな事言ったら何にもできないじゃないか、と言いたくなりますけど、悟りへと向かわせるような欲は、悟るまでは必要なものなので、あまり深く考える必要はありません。

心が清らかになりますように、と思いながら善行為を重ねるのが良い事だと思います。

 

 

ちなみに、やらない善、とは一般的には善行為をしない事と考えられますが、言葉通り時には「やらない事」が良い事もあります。

例えば、赤ちゃんがちゃんと二本足で立てるようになるまでには何度も転ぶ事がありますが、危ないからといって立とうとする度に、抱えあげたりしていたらどうでしょう。下手したら歩けなくなるかもしれません。

ここで必要なのは何もせず見守る事です。抱えたくなるのは自分が怖いからでしょう?本当に赤ちゃんの事を思うなら、転んでも怪我をしないように、クッションを敷いてあげる事ぐらいです。

 

それに、ありがた迷惑、というものもありますね。

そもそも何かを必要としている人に、必要な事をしてあげるのが善行為ですが、それが迷惑となる時点で、かなり独りよがりになっていると思われます。

人によく思われたいとか、売名のためだとか、誰かに言われたから仕方なくとか、そういう心だと、いくら大金を寄付したとしても、清らかになるどころか、ますます汚れてしまいます。

つまり貧・瞋・痴に基づく行為は、明確に悪行為となるのです。

 

 

現代では何でも兎に角やれば良い、というような風潮ですけど、自分の心がどういう状態なのか、何を期待しているのか、という事には常に注意を払う事が必要です。

 

とは言っても、心から慈しみをもって行ったとしても、相手が喜ぶとは限りませんが、相手がどう思うかは相手の問題なので、重要視しなくとも構わないと思います。あくまで自分の心の問題です

 

 

ところで、すぐに感謝を表さなければ人非人扱いされる昨今ですが、徳を積みたいのならばむしろ感謝されない方が良いかもしれません。

行為によって積める徳が100だとして、人知れず行うのならばそのまま100残りますが、感謝を受けると100のうちのいくらかはその場で消費する事になります。

報いというのは、心が受けるものなので、感謝されて気分が良くなるなら、徳を消費している事になります。だから積める徳は100よりも少なくなりますね。

勿論その場で徳の報いを受ける事は悪い事ではありませんが、まあシステムとしてそのようになっている、という事らしいのです。

だから、人知れず行う善を特に陰徳と言ったりするのですね。

 

そして最上の善行為とは、ヴィパッサナー瞑想だと言われています。まあこれはテーラワーダの売りだから、そう言っているのだと思うかもしれませんが、少なくとも瞑想している間は、100%不貧・不瞋・不痴となっているはずなので、利己的な心を含む善よりも良い、ということなんですね。

それに最低でも預流果になると、悪い境涯に生まれないという話からすると、最高の報いを受けたと言えると思います。

 

つまり、募金やボランティアも良いけど、瞑想した方がもっと良いよ、ってことですね。