別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

指導者(覚者)に共通する事

わざわざ表に出て、人々を導く方たちというのは、基本的に言語能力に優れています。元々備わっていたか成長過程で獲得したものかは分かりませんが、言葉に出来ないことを説明しようとするのですから、必須の能力と言えます。

 

しかし、言語能力が優れているが故に、よくわからん、という事態に陥っているように思います。みんなどことなく詩的なんですよね、表現の仕方が。

そして、分かりやすかろう、と思うかどうかは分かりませんが、既存の言葉を使ってしまう、という点が誤解を招いています。

同じ文化圏に育った者ならまだしも、日本人としては愛とか神とか言われちゃうと、なんとなく身構える人も多いんじゃないですか?私なんかはゾワゾワしちゃいますよ。

それに日本人には当たり前すぎて、わざわざ言語化しないもの、というのは意外と多いので、西欧人のいうことが、あたかも何か特別なもので、今から獲得しなければならないような気になってしまうんですよね。

それで、こんがらがったり、独り相撲してしまう人が、案外いらっしゃるんじゃないかと思います。

 

 

もう一つ問題があるとすれば、それは聴衆のレベルに左右されるという事です。基本的に対機説法となるわけですから、相手によっては、ちぐはぐな説法になってきます。そうすると周りで聞いてる者は覚者に対して疑いをもつのです。

 

お釈迦様の場合、説法の相手は基本的に僧侶です。当時の僧侶というのは、知識もあるし探究心もあるし、おまけに社会的地位もあるエリートです。つまり聞く側はちゃんとその素養があったのです。

もちろんお釈迦様の能力が優れていたのは間違いないでしょうが。

 

まあそんな感じで、現代において覚者の周りに集まるのは、覚者をアクセサリーにする者か、石を投げるものか、そんな事になってしまうのでしょうかね。