別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

「乗り越える」ということについて

何かを克服するとか、過去の出来事を乗り越えるとか、世間では素晴らしいことのように言われていますね。

でも乗り越える為にはその「何か」が必ず必要なんです。克服した、乗り越えたと言っている限り、いつまでもその「何か」を基準にしてしまっている、後生大事に抱え込んでいることに気づいて欲しいと思います。

 

その「何か」が例えば毒親だった場合、気をつけないと克服したつもりで自分も同じようになる可能性があります。なぜなら「毒親を克服した私」というアイデンティティは、毒親なしでは成り立たないからです。自分の存在の土台にしてしまっているんですね。

でも意識の上では克服したつもりなので、克服できずにいる人よりも、無自覚であるという点で質が悪いのです。

 

かといって、ただ自覚があれば良いか、というとそうでもなくて、自覚しているからこそ、そこに注意が向いてしまうこともあります。

「シロクマのことだけは考えるな」というタイトルの本がありましたが、まさにこのタイトルを見た瞬間から、しろくまのことを考えずにはいられなくなるのです。

親の似たくないところばかり似てしまう事は、良くある事です。自覚があろうがなかろうが、不幸を再生産する可能性が高いことは忘れてはなりません。

 

 

しかしながら、自覚なくして救われる可能性がない事もまた事実です。

 

仏教では「超越」というキーワードがたまに出てきますが、これは「乗り越える」ではなく「断絶」を意味します。

過去は過去、記憶は記憶としてあるけれど、それと今の「私」には全く接点がないということです。過去や記憶とは関係なしに存在しているのです。

言葉では理解できない領域ですが、今まで世間的なアプローチでは解決できなかった人こそ、仏陀の教えにチャレンジしてほしいと思います。