別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

禅問答の消費期限

私は禅については全くの素人であるが、いろんな人がしたり顔に問答しているのを見ると、何か違うんじゃないかと感じる。

 

禅問答、公案というものには答えらしい答えがないが、実はそれこそが禅の極意なのではないか。実際は、悟りの後には公案の言わんとすることが分かるのだが、その前には決して答えが無いのである。

流れにするとこんな感じだろうか。

 × 公案→答え→悟り

 ○ 公案→  →答え

つまり答えが分かったから悟りに達するのではないのである。

公案を与えられた者はそれについて一生懸命考えるが、探せども探せども答えは見つからず、これだと思う答えはことごとく師に叩き潰されてしまう。

公案というのは結局のところ、思考を完膚なきまでの敗北に追い込む為の道具なのだろう。

 

現代における禅の問題とは、公案とその答え(らしきもの)が世に氾濫してしまっていることだ。詰め込んだ知識が邪魔になっていて思考を叩きのめす事が非常に難しくなっているように思う。

 

後の時代になればなるほど悟るのが難しいというのは、こういうことにも原因があるのやもしれぬ。

 

なんちゃって(´-`)