別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

言う事なんて何もない

悟り関係のブログとか山ほどあるし、説明している人も沢山いますけど、実際言うべき事なんて「お釈迦様の言うとおりやれ」しかないのです。

しっかり実践して結果がでれば、おのずと分かる事ですから。それ以前にいくら説明されたって、なんの役にも立ちません。逆にそれらに憧れや執着を持つことになったりもします。

変に知識があると、自分の体験を捻じ曲げて当てはめるという、暴挙に及ぶ可能性もありますし。また、まだまだゴールじゃないのにゴールしたと思い込んでしまったりとか。

 

まあ、ブログしてる時点で私も人のこと言えませんけども。

でも折角こんな記事を見てくれたのだから、とっても役に立つ事を言っておきますね。

 

つべこべ言わずお釈迦様の言うとおりやれ!今すぐに!!

 

親を許せない人の慈悲の実践

よくAC克服のサイトなんか見ると、色々ごちゃごちゃありますが最終的には親を許しましょう、という結論に至っているように見受けられます。

まあ、ふざけんなって思いますよね。あんたの親はたいして毒でもなかったんだろって。そこで不幸自慢が始まるわけですよ。

だから私も許せなんていいません。ただ事実確認をしてみませんか。

 

あなたはとても苦しい思いをして来ました。そして今も苦しんでいます。それは間違いありませんね。

ではあなたの親はどうでしょうか。

毒親になってしまう人は、その親もまた毒親である可能性が非常に高いです。昔は昔で酷い環境だったわけですし。つまりあなたの親もあなたと同じように苦しい思いをしてきたし、今もそれを引きずっているわけです。これは事実ではないでしょうか。

 勿論あなたにした仕打ちが正当化されるわけではありませんが、ここで重要なのは、あなたもあなたの親もこれ以上苦しむ必要は無いということなんです。

 

「私は十分苦しんできた。そしてこれ以上苦しむ必要はない。」

「私の親も十分苦しんできた。そしてこれ以上苦しむ必要はない。」

 

 

いや、親には苦しんでもらわないと割りにあわない、とか思います?

では、見ず知らずの子供が虐待されていたとして、あなたその子供にもっと苦しめって言えますか?子供の頃のあなたも、もっと虐待されたほうが良かったでしょうか。あなたの親だってあなたと同じなんですよ。かつて虐待されて苦しんできた無力な一人の子供です。

とりあえず被害者意識は横に置いて、もう少し冷静に観察してください。親ではなく一人の人間として観察してください。なぜこの人はこんな振る舞いをしているのだろうか、と。この人も私と同じように苦しみの中にいるのだ、と思えてきませんか。

 

いやいや、私と親が同じなんてありえない!と言いたいでしょうが、あなたは苦しみから抜け出したいんですよね?それとも今のままずっと苦しみたいのですか?そこははっきりさせておかなければなりませんね。

もう苦しいのは沢山だと思うのなら、ためしにやってみてもいいのではないでしょうか。

 

まあ、こんなこと言ってる私も、時々記憶がよみがえって来てはムカっとすることがありますが、そんなもんです^^;

だから気を楽にして、ぼちぼちやっていきましょう。

 

もっとも、親を殺すしかないと思うならそうしてもいいと思います。きっと私には考えも及ばないほど極悪な親だったのでしょう。そこはご自由にどうぞ。ただ、それで楽になる保証はないし、別の方法を試すわけにもいかなくなりますから、最後の手段にして欲しいとは思いますが。

 

 

実は瞑想は必要ない?

預流果になるくらいなら、実のところ瞑想は必要ない場合もあるようです。さんざん瞑想瞑想言っていたくせに、どの口が言うんだという感じですが^^;

瞑想して悟るとはいうものの、いろんな話を見ていると瞑想中に悟ったりする事はあまりないように思います。だいたい何かの拍子に、休もうとして横になった拍子に、逆に起きようとした拍子に、突如として起こったりするのです。何かを見た拍子に、鳥の鳴き声を聴いた拍子に。

それが何時来るかは分かりませんが、悟りを意識している時でないことは確かです。悟りと言うのは追えば追うほど逃げていってしまうようですね。数ある欲望のなかで、あとは悟りたいという欲だけを持っている人が、その悟りたいという気持ちを捨てた途端悟った、という話もあるそうですから。

 

じゃあどうすればいいんだ、という話なんですけど、こればっかりはどうしようもないんですよね。あっさり悟る人もいれば、死ぬ間際まで悟れない人もいるし。個人差が非常に大きい。

結局のところ、期待せず、かといって落胆せず、粛々と修行を続けていくしかないようです。

 

 

花粉症ゼロの実現

すべての人に有効かはわかりませんが、花粉症を治したいなら水をちゃんと摂ることです。

冬の間、どれだけきちんと水を飲んだかで明暗が分かれます。

私も酷い花粉症でしたがちゃんと水分を摂るようにしてから、ほとんど症状が出ていません。たまには鼻水も垂れますが、まあ気にしないことも一つの方法ですね。

野口整体 花粉症、で検索すれば水の飲み方とかわかると思いますので、是非試してみてください。

 

昔は足とか乾燥して粉吹いていましたけど、乾燥肌とかじゃなくて単純に水分不足なだけなんですよね。トイレに行きたくなるから水を飲むなって言われてましたけど、今思えばトイレぐらい自由に行けないことに疑問を持つべきでしたね。

 

 

お経を読むという事

マントラというものがありますね。まあ呪文をひたすら唱える事でそれ以外に思考を費やさないための一つの方法ではありますが、唱えるのをやめた途端元の木阿弥になったりします。

でも、私はお経を唱えてもいい事もあると思っています。お経と言ってもちゃんとした仏陀の教えに限りますけど。そうしてお経を唱えて、仏陀の教えを再確認し、怠けや挫けそうな心を叱咤激励するのです。

そういう風に自分自身を鼓舞する目的で、お経を読んでみてはいかがでしょうか。

 

師匠や善友がいればそんな必要もないでしょうけど、出会えるかどうかは分かりませんからね。

 

悟りが不退転の理由

最低でも預流果になると、いずれ阿羅漢に達する事が決定されているといいますが、それは何故なのか。なんで?と思っても、経典に書いてあるから、という理由しか見当たらないのでちょっとだけ考えてみました。

 

私が思うに、自転車と同じではないかと。

自転車に一度でも乗れてしまうと、もう乗れなかったときの事を思い出すことができませんよね。わざと乗れない風に装ってみてもやはり本当に乗れない時とは違います。

あるいは歩くということでも言えるかも知れません。よく認知症の徘徊が問題になりますが、どれほどボケても歩くことを忘れたりはしないのです。物理的に歩けなくなることはあるでしょうが。

 

まあそんな感じで、一度でも無我を体験してしまうと二度と凡人には戻れないのだろうと思いました。

 

 

悟りと超能力

仏典にも神通力の話が出てきますけど、これは別に嘘でも誇張でもないんだと思います。まあ、私にはそんな力がないので確かめようがないんですが。

 

整体の野口晴哉さんの話を読むと分かるんですけど、超能力というのはつまるところ、ものすごい集中力なんですよね。なんの集中かというとエネルギーの集中です。野口先生の師匠で松本道別という人の霊学講座という本を見ると、呼吸法とか気合法とか色々あるんですけど、やっぱり気を集めることを中心にしているんですよね。野口先生はそれを治療に活かすために、掌への集中へと絞りましたけど。

 

だから、集中力を高めるためのサマタ瞑想をしていれば、超能力が身につくのもさもあらんという感じです。

ただ、悟っていなくても超能力は使えるし、悟っていても使えない場合もあります。超能力は悟りに必須ではなくて、修行過程での副産物でしかないと肝に銘じておいたほうがよいでしょう。

※預流果になると、自分が預流果になったとはっきり分かる神通力というのもあるそうです。それを神通力と呼んでいいのかわかりませんが、まあこれは正直あると思います。

 

超能力を得る為に悟りの修行をするくらいなら、霊学講座とか即席活用忍術気合術秘伝とか読んで修行したほうが、よほど効率が良いと思います。

霊学講座は、真剣の上に立ったり針を身体に刺したりと実践写真もあってかなりオカルト的なのですが、興味のある方はどうぞ。結構分厚い書籍で絶版になっていますが、もしかしたら近所の図書館にあるかも。

気合術に関するいくつかの本は国会図書館デジタルコレクションで読めます。

 

まあ、悟りたい人がそんなことやってる時間あるのかって話なんで、あんまりオススメしませんけど。

 

 

カルマスパイラル

人がどの程度成功するかというのは、ほとんど初めから決まっています。それをカルマと言うんですけども。

まあ、何でもかんでもカルマの所為にするのは良くありませんが、もし、今自分があまり恵まれていないと思うのなら、何処かで気合を入れて、良いカルマを積むしか無いと思います。来世に期待、というやつです。

 

しかしまあ、カルマって一度こけたらドツボにはまるなと思うわけです。どういう事かというと、

 

お布施する→お金持ちに生まれる→余分にお布施できる→さらにお金持ちに→もっとお布施→\(^o^)/

 

 悪い事する→悪い境涯に生まれる→いい事はし難くさらに悪い事する→さらに悪い境涯に生まれる→\(^o^)/

 

しかし、良い境涯に生まれたところで、それに胡座かいて無茶苦茶していると、どんどん良いカルマを消費して、次は良く無い境涯に生まれるかもしれません。それと今回はお布施の例を出しましたけど、金銭的には恵まれても心は楽を享受できず地獄、というパターンもあります。

とにかく輪廻が続く限り、何処に生まれようが油断できないんですよね。

 

まあ、だから解脱しようよって話になるんですけどね。

 

 

 

 

悟りはビジネスにならない

三結が切れたのだとわかった時、私はそれを母に説明しようとしました。そして一言二言話し始めてすぐ、ああこれは無理だな、と思ったのです。

 

一つ目は、言葉で説明する事は至難の業だという事です。もともと話し上手ではありませんでしたが、本だけは読んでいたので語彙力はある方だと思っていましたが、そもそもそれを表す言葉が存在しないんですね。あれこれ工夫してみても、結局月そのものではなく、それを指し示す手でしかない、という事を痛感しました。

 

二つ目は、母は少なくとも私の話を聞いたぐらいでは悟れないとわかったからです。母は口では楽に成りたいと言っていましたが、本当にはそう思っていないという事です。いや、本人は心の底から思っているつもりなのかもしれませんが、そう思わせるのもまた、巧妙な自我の働きなのだと思います。

仏性という言葉があるように、誰しも悟りを開く可能性はあるのかもしれませんが、種子を発芽させる、そのための土壌がないのです。私は絶望によってその土壌を自分で用意しましたが、それは必要にかられたからという理由でしかありません。母のように、本当には切羽詰まっていない人が、自力で土壌を用意するのは難しいのかもしれません。

そして、残念ながら私には他人に土壌を用意してやれるだけの力量がありませんでした。

 

母に対して色々思うところはありましたが、同じ苦しみを背負う衆生の一人として、やっぱり楽になって欲しいと思っています。しかし、それがどれほど困難な事か。仏陀と比べるのはおこがましいですが、梵天に諭される前はこんな気持ちだったのかもしれないなぁと思いました。説明を放棄した私を、母は法螺吹きだと思っているのでしょうね。

 

お坊さんなんかは、毎日毎日訳のわからん有象無象相手に説法しているのだから、本当に大変だと思います。OSHOという人は、自分がマスターとして活動しているのは、カルマの働きだと言っていたそうですが、それってあまり良いカルマではなさそうに思います。

どれほど話しても分かってもらえないという徒労感は、別に悟りじゃなくても味わった事がある人も多いと思いますが、それを死ぬまで続けるのだから、難儀な事です。

私は自分には人を導くような能力がなくて、むしろ良かったのだと思います。適当な事言って大勢を惑わす事もないですから、余計なカルマを積む事もないですし。

 

まあ、不幸(?)にもこのブログを見てしまった方のために、是非原始仏教に触れてくださいと言っておきます。

重要なのは、四聖諦、八正道、因縁、そして瞑想です。

各項目の説明はテーラワーダのホームページで十分理解できると思います。別に回しもんじゃありませんが、よくわからない人のブログでの説明より、断然良いと思いますので。お金もかからないし、変なスピに触れて感化される心配も無いですしね。

 

お金払って悟れるなら、いくらケチの私だって500円くらいは出しますよね^^

 

みんなが悟ったら

みんなが悟ってしまったらどうなるのか?人類は絶滅するの?

仏教に足を踏み入れた人が、一度は考えるんじゃないかなと思うんです(偏見?)

答えは「そんな事にはならないから無駄な事考えずに修行しろ」なんですけどね。

 

まだ子供の頃は、この答えに納得出来なかったんですけど、大人になるにつれ、確かにそんな事にはならないだろうという、確信が生まれました。

目標は大事、欲望は原動力、努力は美徳、ちょっとネットを見ただけでもそんな主張で溢れかえっていますね。

そして、口を揃えて必ず言うのが、「欲望が無くなったら経済は衰退し子孫も生まれず人類は絶滅する」

 

それで?って感じです。

人類が絶滅して誰が困るんですかね?人類が困るのかな?問題だと思う人類自体がもういないのに?

地球や他の動物からしたら、人類がいなくなって清々するんじゃないですかね。

 

 

 

仏陀の教えに出会えた事は稀有な事だし、さらに実践しているなら、ゲームクリアする事も時間の問題でしょう。

だからと言って優越感とか持ってしまうと何にもならないんですけどね。

仏陀の教えは、全人類の救済なんてハナから考えていないのです。ただあなた一人が救われるために教えを説いて下さったのです。阿羅漢達は、将来同じ道を歩むだろうあなたのために仏典を残してくれました。

 

まあ欲望礼賛主義のおかげで、私も生きて悟りを目指す事が出来るんで、それをただ乗りだと言われても仕方ないかなと思います。ただ、資本主義からすれば、参加する人数が多い方が、欲望礼賛主義の方にとっても都合がいいはずですから、あまり虐めないでほしいものです。生きている限り、最低限衣食住にかんしては消費活動してるんですからね。