別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

花粉症ゼロの実現

すべての人に有効かはわかりませんが、花粉症を治したいなら水をちゃんと摂ることです。

冬の間、どれだけきちんと水を飲んだかで明暗が分かれます。

私も酷い花粉症でしたがちゃんと水分を摂るようにしてから、ほとんど症状が出ていません。たまには鼻水も垂れますが、まあ気にしないことも一つの方法ですね。

野口整体 花粉症、で検索すれば水の飲み方とかわかると思いますので、是非試してみてください。

 

昔は足とか乾燥して粉吹いていましたけど、乾燥肌とかじゃなくて単純に水分不足なだけなんですよね。トイレに行きたくなるから水を飲むなって言われてましたけど、今思えばトイレぐらい自由に行けないことに疑問を持つべきでしたね。

 

 

お経を読むという事

マントラというものがありますね。まあ呪文をひたすら唱える事でそれ以外に思考を費やさないための一つの方法ではありますが、唱えるのをやめた途端元の木阿弥になったりします。

でも、私はお経を唱えてもいい事もあると思っています。お経と言ってもちゃんとした仏陀の教えに限りますけど。そうしてお経を唱えて、仏陀の教えを再確認し、怠けや挫けそうな心を叱咤激励するのです。

そういう風に自分自身を鼓舞する目的で、お経を読んでみてはいかがでしょうか。

 

師匠や善友がいればそんな必要もないでしょうけど、出会えるかどうかは分かりませんからね。

 

悟りが不退転の理由

最低でも預流果になると、いずれ阿羅漢に達する事が決定されているといいますが、それは何故なのか。なんで?と思っても、経典に書いてあるから、という理由しか見当たらないのでちょっとだけ考えてみました。

 

私が思うに、自転車と同じではないかと。

自転車に一度でも乗れてしまうと、もう乗れなかったときの事を思い出すことができませんよね。わざと乗れない風に装ってみてもやはり本当に乗れない時とは違います。

あるいは歩くということでも言えるかも知れません。よく認知症の徘徊が問題になりますが、どれほどボケても歩くことを忘れたりはしないのです。物理的に歩けなくなることはあるでしょうが。

 

まあそんな感じで、一度でも無我を体験してしまうと二度と凡人には戻れないのだろうと思いました。

 

 

悟りと超能力

仏典にも神通力の話が出てきますけど、これは別に嘘でも誇張でもないんだと思います。まあ、私にはそんな力がないので確かめようがないんですが。

 

整体の野口晴哉さんの話を読むと分かるんですけど、超能力というのはつまるところ、ものすごい集中力なんですよね。なんの集中かというとエネルギーの集中です。野口先生の師匠で松本道別という人の霊学講座という本を見ると、呼吸法とか気合法とか色々あるんですけど、やっぱり気を集めることを中心にしているんですよね。野口先生はそれを治療に活かすために、掌への集中へと絞りましたけど。

 

だから、集中力を高めるためのサマタ瞑想をしていれば、超能力が身につくのもさもあらんという感じです。

ただ、悟っていなくても超能力は使えるし、悟っていても使えない場合もあります。超能力は悟りに必須ではなくて、修行過程での副産物でしかないと肝に銘じておいたほうがよいでしょう。

※預流果になると、自分が預流果になったとはっきり分かる神通力というのもあるそうです。それを神通力と呼んでいいのかわかりませんが、まあこれは正直あると思います。

 

超能力を得る為に悟りの修行をするくらいなら、霊学講座とか即席活用忍術気合術秘伝とか読んで修行したほうが、よほど効率が良いと思います。

霊学講座は、真剣の上に立ったり針を身体に刺したりと実践写真もあってかなりオカルト的なのですが、興味のある方はどうぞ。結構分厚い書籍で絶版になっていますが、もしかしたら近所の図書館にあるかも。

気合術に関するいくつかの本は国会図書館デジタルコレクションで読めます。

 

まあ、悟りたい人がそんなことやってる時間あるのかって話なんで、あんまりオススメしませんけど。

 

 

カルマスパイラル

人がどの程度成功するかというのは、ほとんど初めから決まっています。それをカルマと言うんですけども。

まあ、何でもかんでもカルマの所為にするのは良くありませんが、もし、今自分があまり恵まれていないと思うのなら、何処かで気合を入れて、良いカルマを積むしか無いと思います。来世に期待、というやつです。

 

しかしまあ、カルマって一度こけたらドツボにはまるなと思うわけです。どういう事かというと、

 

お布施する→お金持ちに生まれる→余分にお布施できる→さらにお金持ちに→もっとお布施→\(^o^)/

 

 悪い事する→悪い境涯に生まれる→いい事はし難くさらに悪い事する→さらに悪い境涯に生まれる→\(^o^)/

 

しかし、良い境涯に生まれたところで、それに胡座かいて無茶苦茶していると、どんどん良いカルマを消費して、次は良く無い境涯に生まれるかもしれません。それと今回はお布施の例を出しましたけど、金銭的には恵まれても心は楽を享受できず地獄、というパターンもあります。

とにかく輪廻が続く限り、何処に生まれようが油断できないんですよね。

 

まあ、だから解脱しようよって話になるんですけどね。

 

 

 

 

悟りはビジネスにならない

三結が切れたのだとわかった時、私はそれを母に説明しようとしました。そして一言二言話し始めてすぐ、ああこれは無理だな、と思ったのです。

 

一つ目は、言葉で説明する事は至難の業だという事です。もともと話し上手ではありませんでしたが、本だけは読んでいたので語彙力はある方だと思っていましたが、そもそもそれを表す言葉が存在しないんですね。あれこれ工夫してみても、結局月そのものではなく、それを指し示す手でしかない、という事を痛感しました。

 

二つ目は、母は少なくとも私の話を聞いたぐらいでは悟れないとわかったからです。母は口では楽に成りたいと言っていましたが、本当にはそう思っていないという事です。いや、本人は心の底から思っているつもりなのかもしれませんが、そう思わせるのもまた、巧妙な自我の働きなのだと思います。

仏性という言葉があるように、誰しも悟りを開く可能性はあるのかもしれませんが、種子を発芽させる、そのための土壌がないのです。私は絶望によってその土壌を自分で用意しましたが、それは必要にかられたからという理由でしかありません。母のように、本当には切羽詰まっていない人が、自力で土壌を用意するのは難しいのかもしれません。

そして、残念ながら私には他人に土壌を用意してやれるだけの力量がありませんでした。

 

母に対して色々思うところはありましたが、同じ苦しみを背負う衆生の一人として、やっぱり楽になって欲しいと思っています。しかし、それがどれほど困難な事か。仏陀と比べるのはおこがましいですが、梵天に諭される前はこんな気持ちだったのかもしれないなぁと思いました。説明を放棄した私を、母は法螺吹きだと思っているのでしょうね。

 

お坊さんなんかは、毎日毎日訳のわからん有象無象相手に説法しているのだから、本当に大変だと思います。OSHOという人は、自分がマスターとして活動しているのは、カルマの働きだと言っていたそうですが、それってあまり良いカルマではなさそうに思います。

どれほど話しても分かってもらえないという徒労感は、別に悟りじゃなくても味わった事がある人も多いと思いますが、それを死ぬまで続けるのだから、難儀な事です。

私は自分には人を導くような能力がなくて、むしろ良かったのだと思います。適当な事言って大勢を惑わす事もないですから、余計なカルマを積む事もないですし。

 

まあ、不幸(?)にもこのブログを見てしまった方のために、是非原始仏教に触れてくださいと言っておきます。

重要なのは、四聖諦、八正道、因縁、そして瞑想です。

各項目の説明はテーラワーダのホームページで十分理解できると思います。別に回しもんじゃありませんが、よくわからない人のブログでの説明より、断然良いと思いますので。お金もかからないし、変なスピに触れて感化される心配も無いですしね。

 

お金払って悟れるなら、いくらケチの私だって500円くらいは出しますよね^^

 

みんなが悟ったら

みんなが悟ってしまったらどうなるのか?人類は絶滅するの?

仏教に足を踏み入れた人が、一度は考えるんじゃないかなと思うんです(偏見?)

答えは「そんな事にはならないから無駄な事考えずに修行しろ」なんですけどね。

 

まだ子供の頃は、この答えに納得出来なかったんですけど、大人になるにつれ、確かにそんな事にはならないだろうという、確信が生まれました。

目標は大事、欲望は原動力、努力は美徳、ちょっとネットを見ただけでもそんな主張で溢れかえっていますね。

そして、口を揃えて必ず言うのが、「欲望が無くなったら経済は衰退し子孫も生まれず人類は絶滅する」

 

それで?って感じです。

人類が絶滅して誰が困るんですかね?人類が困るのかな?問題だと思う人類自体がもういないのに?

地球や他の動物からしたら、人類がいなくなって清々するんじゃないですかね。

 

 

 

仏陀の教えに出会えた事は稀有な事だし、さらに実践しているなら、ゲームクリアする事も時間の問題でしょう。

だからと言って優越感とか持ってしまうと何にもならないんですけどね。

仏陀の教えは、全人類の救済なんてハナから考えていないのです。ただあなた一人が救われるために教えを説いて下さったのです。阿羅漢達は、将来同じ道を歩むだろうあなたのために仏典を残してくれました。

 

まあ欲望礼賛主義のおかげで、私も生きて悟りを目指す事が出来るんで、それをただ乗りだと言われても仕方ないかなと思います。ただ、資本主義からすれば、参加する人数が多い方が、欲望礼賛主義の方にとっても都合がいいはずですから、あまり虐めないでほしいものです。生きている限り、最低限衣食住にかんしては消費活動してるんですからね。

 

 

「乗り越える」ということについて

何かを克服するとか、過去の出来事を乗り越えるとか、世間では素晴らしいことのように言われていますね。

でも乗り越える為にはその「何か」が必ず必要なんです。克服した、乗り越えたと言っている限り、いつまでもその「何か」を基準にしてしまっている、後生大事に抱え込んでいることに気づいて欲しいと思います。

 

その「何か」が例えば毒親だった場合、気をつけないと克服したつもりで自分も同じようになる可能性があります。なぜなら「毒親を克服した私」というアイデンティティは、毒親なしでは成り立たないからです。自分の存在の土台にしてしまっているんですね。

でも意識の上では克服したつもりなので、克服できずにいる人よりも、無自覚であるという点で質が悪いのです。

 

かといって、ただ自覚があれば良いか、というとそうでもなくて、自覚しているからこそ、そこに注意が向いてしまうこともあります。

「シロクマのことだけは考えるな」というタイトルの本がありましたが、まさにこのタイトルを見た瞬間から、しろくまのことを考えずにはいられなくなるのです。

親の似たくないところばかり似てしまう事は、良くある事です。自覚があろうがなかろうが、不幸を再生産する可能性が高いことは忘れてはなりません。

 

 

しかしながら、自覚なくして救われる可能性がない事もまた事実です。

 

仏教では「超越」というキーワードがたまに出てきますが、これは「乗り越える」ではなく「断絶」を意味します。

過去は過去、記憶は記憶としてあるけれど、それと今の「私」には全く接点がないということです。過去や記憶とは関係なしに存在しているのです。

言葉では理解できない領域ですが、今まで世間的なアプローチでは解決できなかった人こそ、仏陀の教えにチャレンジしてほしいと思います。

 

 

悟りと男女

男性脳とか女性脳とか、言っている人がいますが、まあそんなくだらない事は仏教徒なら無視しておくに限ります。

厳密に言えばホルモン等の影響による差はあると思いますが、それよりは環境から受ける影響のほうが大きいです。女性は女性として育てられるし、男性は男性として育てられるのです。

 

この平成の世であっても、「女に学はいらない」と考えている男性というのは、実はかなりいます。どうせ嫁にいくだろう、ということなんでしょうかね。

男性に言われてもへらへらしているのに、女性に言われると逆上する男性というのもいますしね。

脳の機能の違いというよりは、学習によって獲得した反応でしかありません。

 

悟りに関しては男女の差は全くありません。大乗仏教にみられるような、女性は悟れないとか、一回男性に変わってから、とかそういうのは完全な間違いです。所詮肉体なんていうのは条件によって現れたものでしかありません。

ただし、極端に本質を突き詰める能力、ということで言えば男性が有利になるとも言えますが、それもあくまで社会的要因であって、全ての男性にそなわっているわけではありません。ただ女性が知性を伸ばす事について、あまり推奨されないのがこの社会なんです。

 

まあ結局は「人による」としか言えませんな。

そもそも悟りっていうのは、そういう全ての概念を超越していくのだから、男女の違いとか言っている時点でお察しなのです。

 

 

偽善と善

さあ、今年も偽善だ何だと罵り合う季節がやってきましたね^_^

 

毎年毎年、やらない善よりやる偽善だ!とこれまた偽善的な事を喚き散らしておりますが、そもそも善とは何か、偽善とは何か、ちゃんと言葉の定義をしてから始めてもらいたいものです。

 

さて、仏教において善とは何かというと、不貧・不瞋・不痴の心に基づいた行為、簡単に言うと欲望から離れること、自分の心が綺麗になることが善とされます。

だから募金してお金への執着を手放す事ができるなら、それは善行為となります。

 

しかし、人間の心の構造上、全くの見返りを求めないことは不可能です。心が清らかになりますように、というのも究極を言えば欲です。だから悟らない限り、どのような行為にも利己的な心が入り込みますので、偽善とも言えるわけです。

 

そんな事言ったら何にもできないじゃないか、と言いたくなりますけど、悟りへと向かわせるような欲は、悟るまでは必要なものなので、あまり深く考える必要はありません。

心が清らかになりますように、と思いながら善行為を重ねるのが良い事だと思います。

 

 

ちなみに、やらない善、とは一般的には善行為をしない事と考えられますが、言葉通り時には「やらない事」が良い事もあります。

例えば、赤ちゃんがちゃんと二本足で立てるようになるまでには何度も転ぶ事がありますが、危ないからといって立とうとする度に、抱えあげたりしていたらどうでしょう。下手したら歩けなくなるかもしれません。

ここで必要なのは何もせず見守る事です。抱えたくなるのは自分が怖いからでしょう?本当に赤ちゃんの事を思うなら、転んでも怪我をしないように、クッションを敷いてあげる事ぐらいです。

 

それに、ありがた迷惑、というものもありますね。

そもそも何かを必要としている人に、必要な事をしてあげるのが善行為ですが、それが迷惑となる時点で、かなり独りよがりになっていると思われます。

人によく思われたいとか、売名のためだとか、誰かに言われたから仕方なくとか、そういう心だと、いくら大金を寄付したとしても、清らかになるどころか、ますます汚れてしまいます。

つまり貧・瞋・痴に基づく行為は、明確に悪行為となるのです。

 

 

現代では何でも兎に角やれば良い、というような風潮ですけど、自分の心がどういう状態なのか、何を期待しているのか、という事には常に注意を払う事が必要です。

 

とは言っても、心から慈しみをもって行ったとしても、相手が喜ぶとは限りませんが、相手がどう思うかは相手の問題なので、重要視しなくとも構わないと思います。あくまで自分の心の問題です

 

 

ところで、すぐに感謝を表さなければ人非人扱いされる昨今ですが、徳を積みたいのならばむしろ感謝されない方が良いかもしれません。

行為によって積める徳が100だとして、人知れず行うのならばそのまま100残りますが、感謝を受けると100のうちのいくらかはその場で消費する事になります。

報いというのは、心が受けるものなので、感謝されて気分が良くなるなら、徳を消費している事になります。だから積める徳は100よりも少なくなりますね。

勿論その場で徳の報いを受ける事は悪い事ではありませんが、まあシステムとしてそのようになっている、という事らしいのです。

だから、人知れず行う善を特に陰徳と言ったりするのですね。

 

そして最上の善行為とは、ヴィパッサナー瞑想だと言われています。まあこれはテーラワーダの売りだから、そう言っているのだと思うかもしれませんが、少なくとも瞑想している間は、100%不貧・不瞋・不痴となっているはずなので、利己的な心を含む善よりも良い、ということなんですね。

それに最低でも預流果になると、悪い境涯に生まれないという話からすると、最高の報いを受けたと言えると思います。

 

つまり、募金やボランティアも良いけど、瞑想した方がもっと良いよ、ってことですね。