別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

悟ることのデメリットとは

私が二進も三進も行かなくなった時、もう傷病手当貰いながら会社休んだれ!と思って診療内科を受診しました。

実際には、息も絶え絶え、すでに自殺の手段を考えるような段階でしたが、初診から一週間後には休職する計画はパーになってしまいました。

 

なぜかというと、悟ると基本的に鬱病になれないから。

悟ると言っても私の場合は未練タラタラで解脱するほどのものではないですが。

 

それ、の直後は自我の揺り戻しみたいな感じがあったので、一時的に死にたくなるんですけど、それを超えるともう落ち着いてしまいました。生きる理由はないけど死ぬ理由もない、みたいな。

 

しかし、別の意味で憂鬱になる事はあります。残った自我がうっとおしく思えてくるんです。勝手に暴走している自我を眺めているのにウンザリしてくるというか。まあ、自我を嫌だと思っているのも自我なんでしょうけど。 

 

 

あ〜休職からの障害年金で悠々自適な生活を送るはずだったのにな〜^^;

 

手当受給を狙っている人は、絶対に悟らないようご注意下さい。

 

 

 

 

 

 

悟りは究極の幸福

っていうのはただの方便だと思います。

僧侶は仏教を布教することも一応職務のうちなんで、みんなが興味を持ってくれるようにちょっと大げさに言っているだけでしょうね。まあ本当のところは知らんけども。

 

苦があるから楽がある、苦という谷を楽という山で埋めようとしたら平らになって、結局苦も楽もなくなってしまいます。そして悟りというのは苦を滅する道。つまり……

 

ちょっと釣り針大きすぎやしませんかね?^^;

 

 

神様はじめました?

私は別に神様を否定している訳ではありません。祈ったりお参りしたりして、その加護を受けながら俗世の荒波を乗り越えていけばいいと思います。

でも、それをしたからって悟れるかというと、そんなことはありません。なんの関係もない。もしあなたの目的が本当の悟りなら、ちょっと距離を置いておいた方がいいと思います。出家者もね。

 

私が神様が嫌いな理由は、一つは父親の所為です。奴は事あるごとに自分は神だと言っていたのです。(あなたが神か!)

なんらかの病名が付きそうな父親ではありますが、実際は愛されたくて仕方ない弱っちい人間でした。その満たされない思いが外へ向かったのが父親、内へ向かったのが私。父と私は似ているので二人っきりでいると案外平和だったりします。母か兄がいるともうダメでしたけど。

まあそんなこんなで、こんなのが神様なら神などいらぬ!といった感じで、神様嫌いとなったわけです。

 

もう一つの理由としては、これは勝手なイメージなんですが、人間に接触してくる程度の神様って、世間知らずのボンボンか、箱入りお嬢様みたいな無自覚な悪意と言いますか善意の押し付けのようなものを感じてしまうのです。

神の愛と言うのは、我々が食べなきゃ死ぬように、その次元の神にとっては愛が食料なんですね。愛がなければ生存できない。そこには人間が丹精込めて食肉用の家畜を育てるような気持ち悪さがあります。神が愛を実践するのは、とどのつまり神の都合によるものであって、決して人間が愛おしいからではありません。本人はそう思っているかもしれませんがね。

結果として人間のためになるならいいじゃないかと思うかもしれませんが、やっぱり私は願い下げです。

同じ種族の人間同士ですらまともに分かり合えないのに、神様なんて何が地雷になるか……

まあ端的に言えば、面倒くさい、ということですな。

 

 

ハッピー?バースデー

 

最近誕生日を迎えました。1年生きたという事は1年死んだという事でもあります。生まれた事を喜ぶなら死ぬ事も喜ばないと辻褄が合いませんよ〜

 

それはさておき、母親から連絡がありました。

「そろそろ誕生日やね、どうする?」

 

 

別にどうもしねぇよ^^;

 

こういうふわっとした会話が私はどうしても受け入れられないんですよね。おそらく、ここから話を膨らませて近況報告とか雑談につなげていくという意図があるのでしょうけど、とにかく煩わしいんです。

特に、母親と話していると最後には必ず私はサンドバッグになるのです。もうウンザリなんですよ。

 

母親が期待しているのは、久しぶりにご飯でも食べよう、と提案する事だと思われますが、実際は幾つになっても子供の誕生日を祝うよく出来た母親という自分、何ですよね。

結局、自分の存在意義を確認するために子供をダシに使っているだけなんです。

 

 

 

私の一部が死んだあの日から、親はただの人類となりました。

 

だから私は仏教徒らしく祈ります。 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

ただし、私のいないところでな!!!

 

 

呪い

兄はしょっちゅう父親に殴られてましたけど、私はしょっちゅう母親のゴミ箱にされていました。

いかに自分が酷い事をされてきたか、辛い目にあったか、という恨みつらみを、微に入り細に入り聞かされてきました。子供が親を慰めてあやして、ってもしや今流行りのアダルトチルドレンという奴かな?

 

生まれてこのかた、年がら年中そんな調子で精神的に不安定にならないほうがおかしいでしょ^^;

 

それなのに、お前は変だの、おかしいだの人間じゃないだのと言われて、よく死ななかったもんです。結局、親は自分がされた酷い事と同じことを子供にしていたわけですな。そのくせ、自分は親とは違って理解あるいい親だと思っているんだから、救いようがありません。

 

 

秋葉原の通り魔事件というものがありましたが、あれはありえたかもしれない私の未来です。まあ、犯人は最低最悪のクソッタレに違いありませんけど、彼にとってはあれが唯一の逃げ道だったのかもしれません。

 

よく、追い詰められて自殺するといいますが、自殺っていうのもある意味逃げ道の一つなんだと思います。だって、それで本人はつかの間とはいえ救われているわけですから。発狂した通り魔犯人も同じです。今まで溜め込んだ鬱憤を開放できてさぞかしスッキリした事でしょう。ああ、うらやましい。

 

私には逃げ道がありませんでした。自殺してもなにも終わらない(輪廻する)し、発狂したところでその責任を刈り取る日が来るのだと思うと発狂する事すら出来なくなりました。幸か不幸か悟りの端っこを垣間見れたのでこうして生きていますけど、ほとんど偶然でしかないわけです。

 『ワンチャンあるよ!ただしそこへ至るまでは地獄だけど』って感じでしょうかね。

 

 

まあ、親の仕打ちに関しては、私がその報いを受けるにふさわしかったという事です。そして、親もまた自分の行いの報いを受ける日がやってくるのだろうなと思うと、今はただ哀れでなりません。

 

 

 

 

 

高速ヴィパッサナー瞑想のススメ

テーラワーダ協会に参加してヴィパッサナー瞑想を学んだ人も多いと思います。私も一度参加しましたが、とてもスローな動きで歩く瞑想をすると思うんですけど、それっていつまでもスローなままじゃ駄目じゃないかな?と思います。

 

 習い事とかそうですけど、最初は先生の真似をゆっくり確認しながら練習していって、段々とスピードを上げて行きますよね。瞑想も同じだと思います。

 

ヴィパッサナー瞑想していくと、だんだんと集中力がついてきます。そして集中力が上がるごとに動作を速くしていき、日常生活に落とし込む。そうしないといつまでたっても「今」は見られないんじゃないでしょうか。

見るのはどうしても過去の事になります。今!って言っている瞬間に通り過ぎてしまいます。 

それが究極に集中力が高まって現在と重なった時、壁を突破することが出来るのではないかと推測します。

イメージはマッハで飛ぶ戦闘機が音の壁を破る感じでしょうか。音の壁は自我、戦闘機の速度が集中力。思考の変化は音速とは比べ物にならないくらい速いですけど。

 

ちなみに、私はせっかちな性格なので、ゆっくりやるということがそもそも出来ませんでした。最初から日常動作を対象に瞑想していました。教えられたとおりにやらないと言うのは本当は駄目な事かも知れませんけどね。

でもやっぱり、日常動作に瞑想を入れようとすると集中力がないと出来ないんですよね。だから逆に必死に集中しようとして、集中力がついていったのかもしれません。

 

いずれにしても、結構忍耐が必要なんです。お釈迦様が不放逸でと言ったのも、人間はすぐ自分には出来ないんだとか妄想してしまうから、そういう事にとらわれずに、逆にそういう妄想も瞑想の対象として、とにかくやりなさいってことなんだと思います。

 

 

 

死んでもいいけど・・・

そういえばブログの名前に言及していませんでしたね。

 

私にとって何が一番辛いかというと、「死んでも終わらない」ってことなんです。

死んだらまた生まれなきゃいけないし、しかも今度はどういう生まれになるか分からない。今よりもっと悪い状況かもしれないし、仏教とは全く縁のない世界かもしれない。そうすると悟る可能性もなくなってしまう。

そういうことが怖くて今も生きています。まさに死んでないから生きている状態。夢も希望もありません。

でもいいんじゃないですか?70億の人間が夢や希望に向かって走っていたら気持ち悪いじゃないですか。だいたい夢ってなんですか?それを達成したら今度こそ夢もなく生きていいんですか?でもそうじゃないんでしょう?

 

夢や希望って言っている大半は強迫観念なんですよね。人は本当に退屈すると死んでしまいたくなるので、死なないように何か行動しなきゃいけないという衝動があるんです。ためしに1週間ぐらい何もせずに過ごしてみると分かると思います。死にたくなります。存在に対する根本的な疑問が沸き起こってくると思います。でもそれじゃ自我は困ってしまうんですね。だから衝動っていうのは自我が自分を守る安全装置みたいなものです。

あとは、欲望を滾らせてくれないと困る人たちがいるんですね、この資本主義社会には。大変迷惑です。

別に夢がなくたって人の役に立つ事はできると思いますけどね。

 

 

まぁ、そんなわけで、死んでもいいけどその結果は受け入れる覚悟が必要だということと、せめて死ぬときは穏やかに清らかな心で死ぬようにしてください。うらみつらみで死んで地獄行きとか嫌ですからね。

いきなり穏やかにといっても難しいので、カンダタじゃありませんけど、最後に何か善行をしてそれを思い出しながら死ぬのがよろしいかと思います。是非お試しください。

 

 

 

そういえば私が子供のころは人口は60億っていっていました。親が子供のころは50億だったそうなので、驚くべき人口爆発ですな。

 

 

自己啓発とか自己肯定感とか

私も、もがいていた時期は、本読んだりして何とか自尊心をもとうとか自己肯定感を持てるように、あれこれ頑張ってみましたけど、まあ全て無駄に終わりましたよ。

 

今では、なんと言うか、そもそも肯定するような「自己」なんてないってことが分かったので、特に何もしていません。とは言っても世間で生きていける程度のことはしなきゃなりませんけど。

 

 世間からみれば向上心の欠片もない駄目人間ですけど、事実なので特にいうこともありませんな。

 

 

 

食事という観念

野口晴哉先生曰く、

 食「え」ねば死ぬ

 食「わ」ねば健康になる

 

断食中にいろいろと調べてみたんですけど、大体どの人にも言えることは、頭でご飯を食べてる、ってことですね。

 1日3食だ、いや2食だ、ってそんなの人によるでしょう?お腹が空けば食べればいいし、空かなきゃ無理して食べる必要も無い、というだけのことです。

おまけに肉を食べろ、野菜を食べろとまあやかましい事この上ない。まあそうしないと商売になりませんが^^;

 

私は自炊するようになってから自然と野菜ばかり食べるようになりました。別にベジタリアンだからじゃなくて単純に肉を買うと一気に食費がかさむからっていう理由です。まあ、時々は食べますけどね。

それでどうなったかというと、別にどうにもなってません。体重が増えるでもなく減るでもなく、肌が荒れるでもなく、力が出ないわけでもなく。

 

例えば、一日30品目食べないから調子が悪いのではなくて、そういう観念があるからそれに合わせて体調が悪くなるという。

ようは、思い込み。プラシーボ効果の逆バージョンですね。

 

なんていうか、人間の体ってそんなに簡単に死ぬように出来ていないんですよね。全てが生かす方向に働くようなシステムになっています。それが良いか悪いかは別としてね。究極を言えばそれが苦しみの原因でもありますが・・・

そこに観念を入れてしまうからおかしなことになってしまうんです。

 

「え」と「わ」の違い。思考の産物といえそうです。

 

 

 

断食してみた

してみた、と言うよりはそうなってしまっただけですけど。

 

私はいつも何か食べていたいという食いしん坊なんですけど、時々なにも食べたくなくなります。

そういう時は無理に食べないでいると、1日ぐらいでまた食べたくなってきますが、今回は2,3日経ってもお腹が空かないのでそのまま断食してみることにしました。

 

断食と言っても野菜ジュースや具なしの味噌汁、あとコンソメスープぐらいは時々飲んでいますけど、なんか全然お腹が空かないんですよね。空腹(お腹が物理的に空っぽ)ではあるんだけど、空腹感はないと言った所でしょうか。

 

流石に3日目になると多少のふらつきはありましたが、普段と変わりなく仕事もしています。

なんかまだまだいけそうな気がしましたが、流石に我流でやるのも何かあったら嫌なので最終的に5日間の断食となりました。食べたいという意欲がないと止め時がわからなくなります。

 

体調の変化としては、体が軽くなりましたね。よく筋肉が減るだけだという人も居ますが、体組成計ではかったところ、特に筋肉量は減少していませんでした。骨量も同じ数値でした。体重は減っていましたが。

 

 

巷で見るようなご飯の事ばかり考える、なんて事は全然なくて、特に我慢したわけじゃないのでストレスもありませんでした。

なんとなく食欲が無いようなタイミングで断食を始めるといいかもしれませんね。