別に死んでもいいんじゃない?

そもそも、何で生きてるの?

般若心経って

結局のところ私にはよくわかりません。

仏教系の学校に通っていたので毎朝般若心経読まされていたんですけどね。

仏教の先生にも色々聞いたんですけど、特に意味はありませんとか言われちゃったし^^; 一応お坊さんのはずなんですけど

 

勝手な印象としては、簡単なことを難しくこねくり回しているように感じます。意識高い系とでも言いましょうか。

 

 

四聖諦と八正道、あと縁起あたりを押さえておけば実践する人には十分なのかな、という気がします。

あとは自灯明、ですな。

 

 

負の連鎖

私はお金にたいする執着がすごくあります。めちゃくちゃケチです。執着しつつも、どこか諦めがありますが

 

子供のころは本当に貧乏で、しょっちゅう家にはお金がないといい聞かされてきました。まあ、それは事実だったのかもしれませんけど、いたずらに子供に聞かせることでもありませんし、言うにしても言い方ってもんがあると思います。

例えば、ディズニーランドに行くようなお金はないけど、食べて行くだけなら大丈夫だとか。

私はもともと心配性で何でも深刻に受け止める癖がありましたので、お金が無い=食べる事ができない=死、という恐怖がいつでもありました。

 

子供のころはこんなに不安で一杯なのは親が私に植え付けた所為だと思っていましたし、親にもそう言ったところ返ってきた言葉は

「お前が勝手にそうなったんだろ」

まあ、其の通りですよ。そのように構築された自我を自分自身だと思い込んでいるわけですから。だからと言って親に責任がないわけでもないでしょう。

子供によって生まれ持った性質や反応の仕方が違うわけですから、十把一絡げに対応するのは乱雑すぎるとも思います。

子供を沢山生んでいた時代は今よりもっと親の育て方は雑だったと思いますが、その代わり見本になる兄弟が多いわけで、自分の考えも修正しやすかったのではないでしょうか。うちの家族は変だなって。

逆に数が少なければ、子供一人ひとりの性質も把握しやすくなるので、個別に対応することもしやすくなりそうなもんなんですがね。

結局貧すりゃ鈍する、全部貧乏が悪いんや!(笑

 

 

私はどうしようもない親に育てられましたけど、今となっては私の親もまたどうしようもない親に育てられたわけで、その親もまたどうしようもない親に育てられたわけで、その親もまた・・・・・・誰かが言っていましたが本当に呪いのようです。

 

高校生ぐらいの時、この負の連鎖は私が断ち切るしかないなと決意しました。負の連鎖を断ち切るには、自分の問題を解決するか、子供を持たないことにするしかないと思いました。まあ、もともと結婚願望とか全然ありませんでしたので、ちょうど良かったです。

昨今、結婚しない子供を産まないという人が多いですが、実は私のように考えている人が結構いるんじゃないかなと思います。自分のところに生まれる子供はかわいそうだ、とか。

だいたい、ろくでもない家庭を見て、どうして結婚しようとか思えるんですかね。そのほうが不思議です。

 

 

 

私の親は特別精神的に問題があったのだと思っていたんですけど、所謂普通の家庭で育った人も、はっきり言っておかしいです。人類総精神病なのです。

もし、あなたの家族がどうしようもない人達だったとしても、さほど思い悩む必要はありません。放って置いて、さっさと縁を切ればいいと思います。

ただ、気をつけてほしいのは、自分は親とは違うと思っている人ほど、親と同じ事をしているので。私の母のように。そして、その事に全く気づいていないという。だから自分を省みる事も出来ないしどんどん連鎖していくわけです。

 

 

しかしまあ、肉体的な虐待ならともかく、精神的な虐待は完全に放置されている現状は、何とかならないかなぁ。

一人一人がほんのちょっとでも自分と向き合えばいいのになぁ。まあ、無理だろうけど。

 

 

 

 

生かされている

私たちは生かされているんですよ~感謝感謝~^^

ってよく聞きますけど、それであなた本当に幸せなんですか?「生かされている」の意味を考えた事あるんですか?

  

畜産動物を思い浮かべてください。牛、豚、鶏その他もろもろ。生かされていますよね、人間に。彼らも幸せでしょうね。だって、生かされているんですから。そうなんでしょ?

まあ、餌はたっぷりもらえますね。最近ではのびのび放牧してくれるところもあるそうですし。家畜の安寧?病気になったら即刻処分されますし、元気に育っても美味しく食べられちゃいますけど。幸せですね。

 

動物園。こっちなら畜産よりも良い生涯を送れそうですね。名前も付けてもらえるし、配偶者も用意してくれるし。これなら安泰です。 人間に感謝しないといけませんね。けらど、彼らには使命があります。自分達を生かしている存在を楽しませる、という使命が。

 

人間は動物と違う?なんか出来の悪いテレビショッピングみたいですね。この放送を見ているあなたには特別に!この価格で!みたいな。

もう、すぐ騙されるんだから〜

 

 

 

 

ネットは 「生かされている」礼賛主義みたいなので、天邪鬼な意見が一つくらいあってもいいですよね。

 

 

カルマ的100%自己責任論とカルマの解消

論、と題うっては見たものの、カルマについては考えるだけ無駄とお釈迦様もおっしゃっているので、言うほどの事もないとは思うんですけど、でもカルマというものを考えるとやっぱり100%自己責任であるということになるなぁという事をちょっと書いてみたいと思います。

 

カルマについて詳しくは御自身で調べていただくとして、もともとの意味は「行為」です。そして「行為」が「原因」となり「結果」が現れます。

さて、そもそもの原因となる行為とはなんぞや、という話なんですが、これは「全て」なんですね。自分の全ての行為が原因となって結果がでるのを待っている。

全ての行為って、今日は困っている人を助けました、昨日は嘘をつきました、とかそういう主に記憶に残るような行為だけではなくて文字通り全てです。大雑把に言えば、息を吸ったら吐いて吐いたら吸って、右足を出して左足を出したら前に進む、とかそういうのもカルマです。あと身体的行為だけじゃなくて思考することも行為です。

重要なのは生きている限り行為をしないことは無いということなんですね。

 

そうすると必然的に目の前に現れた結果には、すべて過去の自分の行為があることになります。今生だけじゃなくて、前世のそのまた前世の・・・なんてこともあるかもしれません。

もちろん結果が現れる為には条件がそろわないといけないので、今生では結果をだせないカルマも当然あります。(ちなみに仏教が善行や戒律を推奨するのは、悪いカルマの条件がなるべくそろわないようにするため、という意味もあると思います)

 

まあそのように考えると、100%自己責任だし、カルマの解消なんて到底不可能だなぁと思うのです。これは腑抜けの私には非常に厳しい考えなんですけど、致し方ない。

 

カルマの解消をうたっているセラピスト達は、もし誰かに殺されるというカルマがあったとして、どうやって解消するつもりなんでしょうか。

いっぺん死んでみる?(地獄少女風に)

 

 

 

いかに自己責任が無責任か

冤罪薫る初夏の候~ダブルスタンダードを添えて~

痴漢の被害もその冤罪もぜんぜん減りませんね。これは個人の自衛よりも社会的な構造に問題があると思うんですがね。まあ置いといて。

 

先日も痴漢に間違われた(と主張する)男性が線路内に侵入し電車にはねられたという事件がありましたけど、ネットの反応はいつもどおり「冤罪許せん!女は○ね!」という感じです。

いつも「痴漢に会うのは女が悪い、自己責任」といきまいている人は「冤罪に会うのは男が悪い、自己責任」と言ってほしいところなんですがね。残念。

 

さて、まずこの「自己責任」がいかに「無責任」かという話ですけど、大方の人は天災などは自己責任ではないと考えているかと思います。本当にそうなのか?

例えば、何かの試験があるとして不合格になったとする。勉強が足りなかった、もっと努力しろ自己責任だ。これは分かりますね。

次に、地震津波の被害にあったとする。かわいそう。本当に?

彼ら自己責任論者の理論に沿って言えば、この日本はもともと地震が多いことが分かっているのだから、地震のない国に移住しなかったのは自己責任だ、となってもいいはずなんですけどそうはならない。お金が無いから移住できない?金を稼ぐ努力をしろよ、金がないのは自己責任!普段あれだけ貧困は自己責任だって言っているでしょ。

 

 

ここで痴漢の話にもどりますと、

女性が痴漢の被害に会う

 →満員電車なんかに乗っているのが悪い

 →男を誘うような服装をしているのが悪い

男性が痴漢冤罪の被害に会う

 →満員電車なんかに乗っているのが悪い

 →女のそばに立っているのが悪い

となってもよさそうなもんですけどね。どうですか。

 

結局のところ、自分には無関係か限りなく関わりがないように思える場合は自己責任と言っているだけのようですね。自分にも降りかかってきそうな事は、自分が其の立場になれば自己責任だと責められるわけですから。巷にはびこる自己責任論はどうやら卑怯者の戯言のようです。

 ちなみに車内が空いていても痴漢するヤツはするので、被害にあいたくない人は、男女問わず各々自衛することを推奨します。

 

しかしまぁ、こういう議論は責任の所在と自衛することの是非をごっちゃにしているからいつまでたっても平行線をたどっているのではないでしょうか。

事件の責任は加害者にあるし、自衛の責任は本人にあるし、構造的に犯罪を防止する責任は社会(鉄道会社や政治)にあるし、冤罪の責任は司法にあるし。

もうそれでいいんじゃないですかね?面倒くさいなぁ~

 

 

 

ここまで言ってきてなんですが、カルマ的な意味合いで言うとやっぱり100%自己責任となるんですけどね。その話は次で。

 

 

不誠実な人とは?

だいたい不誠実な人といえば、約束を守らないとか嘘をつくとか、そういった人を思い浮かべると思いますけど、私からすると全ての人間が不誠実です。悟った人を除いて。

 

なぜかというと、不誠実な人とは「自分が不誠実であることに気づいていない、向き合おうとしない人」だからです。

もし、自分が心の底から不誠実だと分かってしまうと、もう生きている事そのものが苦しいので生きていられません。自殺するか、死ねないなら発狂するしかない。

 

たまに自分は善人じゃないとか言い出す人間もいますけど、結局は自己正当化しておしまい。

別に人間だから、生存欲があるから、そのために何でもしてしまう、ということについて私は肯定も否定もしません。それは別に不誠実だとは思いません。ただ欲というのはどうしようもないな、と思うだけです。

その事に向き合おうとしない姿勢そのものが不誠実なんです。

 

注意!

人生を無事に過ごしたいという人は、決して自分と向き合ってはいけません。下手したら悟っちゃうかもしれないですし(笑

 

 

 

偏見だらけのこの世の中

  1. その決断、実は偏見だらけ! Googleの社員教育で実施された、“無意識バイアス”に関する講義 - ログミー
  2. 男性が女性よりもプレゼン上手に見えるのはなぜか? Google社内で行われた「無意識バイアス」に関する講義 - ログミー
  3.  「女性は数学が苦手」という固定観念がテストの点数を下げる!? 思い込みがパフォーマンスに与える影響 - ログミー

 

私が「あなたの判断は偏見に満ちています」といっても負け犬の遠吠えのごとくあしらわれてしまいますので、こういった方々の研究は大変ありがたいですね。

 

記事をみてもらえばわかりますが、ほとんどの人は自分に偏見があるとは思ってないし、なるべく偏見を排除しようとも努めていません。だから、ちょっと嫌な事、例えば面接に落ちたとかがあってもたいして気にする事ではありません。

たまに思いつめて自殺までしてしまう人がいますけど、何の得にもならないし、誰も同情してくれないどころか、あいつ馬鹿だって言われるのが落ちですから、もっと気楽に生きましょうね。

 

 

ジェームズアレンは誤読されているんじゃないかな?

ジェームズアレン著「原因と結果の法則」という本を読みました。世間では引き寄せの法則の先駆者だと評されているようですが、この本はキリスト教圏の人間が書いた仏教の解説書のように思います。著者はシェイクスピアなどの文学を読み漁っていたらしいので、内容が詩的で分かりづらいのかもしれません。

 

誤読の一例として「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」を見てみます。

ここで一番誤解されているのは、人間≠思いであるという部分です。世間の書評や引き寄せの法則に利用されている解釈は、人間=思いであって、「思い」が主人であって人格や環境を作るとなっていますが、上の文章みてもちゃんと人間が主人であると書いていますよね?

 × 思い ⇒ 人格、環境、運命

 ○ 人間  思い、人格、環境、運命

(ここで言う人間というのは一般には真我と呼ばれるものと考えてよいと思います。)

つまり、「思いとか人格とか環境とか、そういったものを自分だと思い込んでいるけどそうじゃないんだよ」、とこの著者は言っているのではないでしょうか。

これってとっても仏教的。

 

しかしまあ、「人間は思いの主人であり・・・」これだけはっきり書かれていながら人間=思いと考えるのはどういうことでしょうか。う~ん・・・私がなにか見落としているのか・・・?

まあそんなわけで、ジェームズアレンの著作を引き寄せの法則を目的として読むより、西洋人が仏教を知る取っ掛かりとするのが良いのではないでしょうか。

 

しかしながら、「はじめもよく、中ごろもよく、終わりもよい」教えというのは余程の才能か訓練が必要なので、やっぱり仏陀の教えを直接学ぶのが、一番だと思います。

  

 

スピ的説教は無意味

あまたいるスピリチュアルティーチャーはこういいます。

「あるがまま」「今を生きましょう」

 

あるがまま、とか、今を生きる、とかそれ自体は問題ないし本当はそうするよう努めるのが良いと思いますが、それを凡夫に言ったところで毒にも薬にもならないんですよね。何を持って「あるがまま」っていうんでしょうか。あなたにはわかりますか?

 

悟りといっても色々段階があって仏教では、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、不還果(ふげんか)、阿羅漢果(あらかんか)の四つの段階があるといいます。悟りにさえ段階があるのに、真理を垣間見た事もない凡夫に「今ここ」とか言ったところで、理解できるはずがないのです。

時にはそれで理解できる人も居るでしょうが、そういう人は過去に散々探求してきた人とか、特別に欲が少ない人とかであって、理解できない人には実際に体験できるような手段が必要なのです。

 

覚者の真似をしてみるという点では、ありなのかもしれませんが、現代人が社会生活を送りながらするにはかなり難しい。普通に社会不適合者になります。

どうせ社会不適合者になるなら、一か八か極端まで突っ走ってそこから飛び降りたほうが余程悟れる可能性があるのではないでしょうか。まあ何の保証も出来ませんが。

 

 

仏教は基本的には相手に合わせて説教をするのですが、残念ながら、仏典にはそういう分類はありません。凡夫向けの説教、預流果向けの説教というのがあると思うのですが。

しかし、どの段階にいてもやることは同じ(瞑想と内観)だから、そういう分類は省いたのかもしれませんね。